社長・坂本毅の『バンベン日記』


 

2019,06,24, Monday 03:47 PM


第37回:任期の延長

ボランティアの任期は2年だった。しかし、文通や日本の学生との交流も経験したせいか、生徒たちの日本語に対する意欲は高まるばかりだった。それに高校1年から、持ち上がりでずっと教えてきたのですっかり愛着が湧いてきた。ボクはどうせ日本に帰っても何もすることが決まってなかったし、なんとか彼らが卒業するまで見届けたいと思って、任期を1年延長することにした。

しかし、生徒たちは高校3年生。中国の受験戦争は日本よりも厳しく、この時期日本語を教えるということは、日本の高校3年生の生徒に教養科目として中国語を教えるようなもので、生徒たちの負担は相当大きい。だから彼らの意志を尊重して、今まで教えてきた2クラスのうち、続けて勉強したい生徒だけを集めて1クラスにして、週5時間の授業を行った。

大変なスケジュールの中、50人の生徒が日本語を続けると言ってきた。受験勉強がきつくなったらいつでもやめていいからということで始めたこのクラスだったが、やはり1人抜け2人抜け最後まで残ったのは30人ぐらいだった。

あるノッポの生徒は僕の部屋にやってきて「先生、ボクは日本語の勉強は好きだけど今は勉強をする余裕がありません。来年何とか内蒙古大学に入って将来は体育の先生になりたいんです。でも大学に入ったらまた日本語を勉強をしたいのでそのときは日本にいる先生と文通がしたいです。」こういいに来る生徒もいてうれしかった。

教室にだんだん空いた席が多くなっていくのを見るのはつらいもの。しかしそれに反比例して生徒たちの意気込みは上がっていった。空いた席を補うように大声で授業に参加している。このような状況でお互い教え学び合っていると、なんだか新たな信頼関係が芽生えてきたような気がした。

こうしてボクの活動は「広く浅く」から「狭く深く」へと移っていった。

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2019,06,22, Saturday 04:20 PM


ジンギスカンは今でもモンゴル族の英雄。その陵はオルドスのほぼ中央のイジンホロというところにある。東勝から南に車で1時間。

そう、かのジンギスカンが西夏遠征時に鞭を落としたとされるところ。今は古代のモンゴル宮殿を模した3つのドームを有する巨大な建物が聳え立っている。

実際はここにジンギスカンが眠っているわけではないが、年に4回祭事が執り行なわれ、モンゴル民族の聖地となっている。ボクは何度もこの陵を訪れたが、特に早春の祭事を学校の先生たちと見に行ったときは印象深かった。

その日は朝から、日本語を勉強している先生とその夫、小学校2、3年くらいの子供と一緒に車をチャーターしてジンギスカン陵へ向かった。

車窓から周りを見渡すと東勝の周りのような地層がむき出しの浸食溝はあまり見られない。乾燥した大地に所々木が生い茂っている。アフリカのサバンナのような風景が続いた。

オルドスの冬はひたすら茶褐色の大地、単色の世界だったが、その時はちょうどポプラの葉が芽吹く頃で、緑がまぶしい。1時間で陵まで着いた。すでに大勢の人が詰め掛けていた。ボクらは普段着だったが、さすがに祭りの日、モンゴル衣装を身にまとった人が多かった。馬で駆けつけていた人もいた。

陵の外側ではラマ僧がお経を唱えている。その周りには熱心な信者が懸命に祈りを捧げている。モンゴル族は大体清朝の頃からラマ教を信じるようになったという。でもここはジンギスカンの陵、少し違和感があった。

陵の中に入ると、先祖代々ジンギスカン陵の「墓守」を続ける「ダルハット」と呼ばれる人たちによる儀式が行われていた。正面の真ん中のドームには巨大なジンギスカンの像が祭られてある。その前に祭壇があり、そこに酒や羊や様々な装飾品が供えられていた。

「ダルハット」たちがジンギスカンの業績を称え、人々の平和を祈る経典を唱える。儀式が一段落すると、祭壇に供えられていた酒が下ろされる。「大王」と慕っているジンギスカンの酒を酌み交わすことで、それぞれの血のつながりと固い絆を確かめ合う。

そして、再びお経が唱えれらる。ドームの奥のほうに行くと、今度はフビライを祭る祭壇があり、そこでも多くの人が跪きながら、何事か祈っていた。

宮殿の外に出た。至るところにモンゴル文字が書いてある。連れの先生が1つ1つ意味を教えてくれた。ボクにとってはさっぱり読めない代物。但し、上から下に豪快に一筆書きで書かれている文字を見るのは気持ちいい。この文字、実は13世紀、モンゴル軍がイスラム圏に進行したときにイスラム文字を持ち帰り、元々横文字なのを縦文字に改良して取り入れたのが始まりだという。なるほど横向きにしてみると何となく、イスラム文字っぽくなる。また、1つ勉強になった。

中庭の中央には大きな樽が置いてあった。人々はその中に持ってきた自家製の「馬乳酒」を流し込む。やがてその樽が馬乳酒でいっぱいになり、それが零れる方角に幸があるという。その年は南東方向。残念ながらモンゴル族高校のほうではない。

その他、神聖な馬に頭を舐めてもらったら、良縁に恵まれるという言い伝えもあり、果敢に挑戦する女性もいた。

昼食は陵の外で羊料理を食べた。羊を食べながら、先生の夫の話に耳を傾けた。その人は歴史が専門。得意げに今日の儀式の重要性を説いていた。やがて話はモンゴル族誕生の伝承へと変わっていく。

「天より降りてきた青き狼、そして白い雌鹿。大いなる湖を渡り、モンゴルの地にやって来た。そして子を授かった。モンゴル族は目に火あり、面に光ある青き狼の子孫である。」調子よく話は進む。「青き狼の軍団は恐れを知らなかった。モンゴル軍は陰山山脈を越え、黄河を渡り、オルドスの高原に進行してきた。そして西夏を滅ぼし、宋や金を攻め中原を落とし、更にヨーロッパへ至る一大帝国を築いたのである・・・。」

そう得意げに言った後、ため息を一つ。「だが、モンゴル帝国は歴史から消えた。」それを境に自慢話から自虐話に変わった。

「最近のモンゴル族には馬に乗れない者もいる。モンゴル語を話そうとしない若者が多い。男は酒ばかり飲み、まともに働こうとしない。・・・。」笑いながら肩をすくめた。そして最後に「でも、何とかしなきゃね。」と自分に言い聞かせるように呟いた。

いつまでも過去の栄光にすがってはいられないという強い意志を感じた。


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2019,06,21, Friday 05:28 PM
中国で暮らす場合歴史のことはしっかり抑えておかなければいけない。ボランティアとして派遣される前に言われていたことで、特に近代史については一通り勉強しておいた。

ただ普段中国で生活していて戦争のことについていろいろ聞かれることはあまりなかった。過去の戦争について謝れと言われたこともないし、謝ったこともない。だが、3年間もいると色々な場面に出くわす。

ある日、仲のいい先生のうちに行ったとき、小学校6年生の娘さんとしばらく話をしていたが、その子が何気に「昔、日本人がたくさんの中国人を殺したこと知ってる?」と聞いてきた。すると間髪を置かずにパチンッと乾いた音。隣に座っていた先生が自分の娘の頬っぺためがけて思いっきりビンタしたのであった。その子は一瞬びっくりして動けなかったが見る見るうちに頬っぺたに手形が現れ、泣いて部屋を出て行ってしまった。

学校の食堂でいつも食事を作ってくれるおばさんや他の2,3人の先生と話していたとき、おばさんにやはり同じことを聞かれたことがある。非常に婉曲的に「昔の中日間で戦争があったんだよ」といった感じだったが、ボクはちょっとムッとして「そんなこと、知ってるよ」とぶっきら棒に言い放った。戦争のことを聞かれたのがいやだったのではなく、なんだか無知を諭されているような感じがしたから思わず、ムッとしてしまっただけだが、そのおばさんは慌てて「いや、でもあんたは偉いよ。中日友好の使者だよ」と言い直した。周りにいた若手の先生もしきりにボクを持ち上げてくれた。なんだか気恥ずかしいような申し訳ないような気がした。

また、ある夜、別の先生のうちに夕食に招かれ、一緒に食事をしていると一人の酔っ払いが部屋に入ってきた。ボクのほうを見るなり、何か叫びだした。なんだか聞き取れなかったし、酔っ払いを相手にしたくなかったのでしばらくほっておいたが、しつこくこっちに向かって何か言っている。そして、そこの先生と高校生の息子で必死にその酔っ払いを追い出そうとしていた。何回も同じことを叫んでいるのでそのうち何を言っているのかわかってきた。「日本人は何人中国人を殺したんだ。お前の父母たちは何人俺たちの父母を殺したんだ。」やがてその酔っ払いは追い出されたが、凍りつきそうな思いになった。

一番応えたのは子供たちとのやり取り。ボクの部屋によく来る子供たちがいた。みんな学校の先生の子供たちで小学校3,4年生くらいの女の子。とてもかわいくちょっとおませなユニット。「ちびっ子48」ということにしておく。

ボクの部屋には日本の文房具や剣玉などのおもちゃが置いてあった。最初はそれを目当てに来ていたようだが、徐々にボクの部屋はチビモニたちの「隠れ家」と化して、とにかく暇があれば来るようになっていた。ボクも時間があるときは入れてあげて一緒に遊んでいた。

「モンゴルの童謡」を教えてくれたり、ボクが持っていた日本語の絵教材を使って、授業ごっこをしたり、何かとさびしい一人暮らしに彩を添える「天使」のようにも思えた。しかし、1日に何度も来るし一度来たらなかなか帰らないので時々厄介に思うようになる。居留守を使ったりすることもあったが、一度入れてしまうとなかなか帰らない。

気まぐれな「天使」たちは一瞬にして「悪魔」に変わる。一度本当に困り果てたことがある。その時は校長の娘もいたので校長のうちに行って何とかしてくれとお願いして校長に僕の部屋まで来てもらい追い出してもらった。「悪がきはこうすればいいんだ。」と自分の娘めがけて蹴りを入れて追い出していた。「君もこれから言うことを聞かない子供は遠慮なく蹴っていいから」といわれたが、性格的にもそこまではできなかった。

この件のあと、しばらくちびっ子48は来なくなっていたが、ほとぼりが冷めた頃、徐々にまた来だした。前と違ってよく言うことを聞くし、ボクもが来なかったら来なかったでなんとなく物足りなかったので、よかったのだが、ある日のこと、ちびっ子48の6人が部屋に遊びに来た。

そしてまた「悪魔」に変身した。その日はカシミア工場の友人宅で食事をすることになっていた。「もう夕方だし、そろそろ帰ってくれないかなあ。」リーダー格の子に聞いた。「帰らない」あっさりと答える。「君は帰ってくれない?」別の聞き分けのよさそうな女の子に振った。ちょっと迷った後で「その子が帰らないなら私も帰らない」と意外としぶとい。「ボクは今から友人の家に行かなきゃいけないんだ」すると「悪魔」の本領を発揮とばかりに「勝手に行けば、この部屋はもうあたしたちのものよ!」

これには本当に頭にきた。「帰れ!」思わず軽く蹴りを入れてしまった。「ワアーっ」とみんな飛び出していった。何とか追い出すことに成功した。

しかしその後、外で会うたびにちびっ子48たちはボクを指差しながら「日本鬼子」と言うようになった。

しばらくしてちびっ子48はまた、「天使」に戻るのだが、この時は本当に応えた。

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2019,06,20, Thursday 05:02 PM


最初に文通を始めた9人の生徒に届く。日本からの手紙の影響は絶大で、その後も多くの生徒が文通を希望した。ボクもあらゆる機会と捉えて、文通の機会を作った。もちろん交流会の後、早大生との文通も始まった。

しかし順調に続いたものもあるが、途絶えたものもある。なぜ途絶えてしまったのか。いろいろ原因はあると思うが、モンゴル族の生徒にとっては日本語で手紙を1枚書くにも、大変な労力を費やす。それに文通とは回を重ねるごとに内容がより深く、細かくなっていくものだが、彼らのその時の日本語のレベルでは、まだそこまで表現できない。このことは、日本の文通相手にとっても、最初は物珍しさで始めた文通が、だんだん物足りなくさせている原因かもしれなかった。

ある日、日本の女子高生と文通をしていた53組の「リーダー」が私の部屋にやってきて、文通している女の子の写真がほしい、と言う。それだったらまず自分の写真を送ってから頼んでみたら、とアドバイスしたら「じゃ、写真を撮ってきます。」と張り切って出て行った。

しばらくして得意げに、できたばかりの写真を持ってきた。なんと写真館まで行って撮ってきていた。彼は53組の学級委員長も務めるほどの好少年だったが、写真の中身はというと・・・。日に焼けた浅黒い顔に白粉を塗りたくって、髪には金の粉がふりかかっている。それでいて鼻の下にはうっすらと髭をたくわえている。輪郭にボカシが入っていて、目は遠くを見つめている。

どう見ても気合の入れすぎ。気合を入れすぎてオネエの見本みたいな写真になっていた。「これは送らないほうがいい。」と思ったが、彼の自信あふれる顔と、この写真に費やした手間、暇、金を考えると、どうしても言い出せなかった。「リーダー」はすぐ手紙にその写真を添えて日本に送った。果たして返事はいつまでたっても来なかった。

普段は文通相手から返事が来なくても、こっちはいちいちタッチしなかったのだが、このケースはあまりにもかわいそうだったので、こっそり相手の女子校生に根回しの手紙を出した。「ここオルドスでは写真を撮ることがめったにない。いったん撮ると決めたらトコトンこだわる。彼の写真のそのこだわりの表れ。これも異文化理解の一環と思って、これからも文通を楽しんでほしい。」と力説し、やっと返事が「リーダー」のもとに届いた。ボクほうにも手紙が来た。やはりあの写真が怖くて返事が書けなかったそうだ。

だいたい異性の子と文通したがる生徒が多かったので、男なのに「~なのね」と言葉が女っぽくなってしまうことがあった。

このように文通作戦はなかなか思い通りにいかなかった。しかしたとえ短い間でも、日本の友だちと日本語で手紙のやり取りができたという経験は、彼らにとって貴重なものだろうし、実際彼らは日本から来た手紙を宝物のように大切にしていた。

*写真は本文とは関係ありませんが、学芸会の様子です。


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2019,06,19, Wednesday 05:10 PM


オルドスは砂漠化が進んでいる。ちょうどボクの活動が始まった91年ごろから、東勝の北西150KMほどのところにあるクブチ砂漠に日本のNGOが入って、砂漠緑化を進めていた。

後にNHKの「プロジェクトX」などにも登場される鳥取大学名誉教授の遠山正瑛先生率いる「沙漠緑化実践協会」という団体。ボクはまたとないチャンスとばかりに、そのNGOの方々にボクの生徒たちとの交流を働きかけた。そして交流が実現するときがきた。

93年2月、早稲田大学の学生を中心とした「緑の訪中団」10名がクブチ砂漠での砂漠緑化の合間に蒙古族中学を訪れたいとの打診があった。

この頃になると、校長を始めとした学校の指導者たちも少しずつボクの活動に理解を示すようになってきた。共にオルドス式宴会を何度もこなしてきた仲、気心が知れてきたということもあるし、2年目からは特に用事がなくても時々校長室に顔を出したりしてきた。

まさに「継続は力なり」。こうした地道な努力が功を奏して、「緑の訪中団」との交流会に校長も興味を示してくれた。そして行動に移してくれた。当時の中国の学校で外国人との交流を行うには事前に教育局や公安局の許可が必要で、そういった手続きをきちんとやってくれた。

しかし、交流会というものの概念が大きく違っていた。校長の案では優秀な生徒10名と先生10名を選抜して、キチンとしたプログラムに則って進めていくというもの。ボクとしては何とか、100人の生徒全員が参加できる交流会にしたかった。日本語ができる生徒もそうでない生徒も、それぞれのやり方で日本の大学生との交流を楽しんでほしかった。

何回も話し合って、お互いの主張をすり合わせていくうちに、1日たっぷり使った、お互いに納得のできる交流会のスケジュールが出来上がった。

せっかく学校側が乗る気になっていたのに、肝心の「緑の訪中団」はその後、さっぱり音沙汰がない。彼らは中国のあちらこちらを旅して最後にオルドスに来る予定だった。こちらからは連絡のしようがない。3日前になっても、2日前になっても連絡がない。

のんびり屋の校長も半信半疑になってきた。「この我が校初の日本人との交流会を実現させるために、私もあっちこっちに頭を下げてきた。私の面子を潰すようなことだけはないだろうね。」どっと重圧がかかってくる。「緑の訪中団」からの打診はボクの夢の中の話だったのかもしれない、と思えてくるほどだ。

前日の昼休み。オルドスホテルから日本人が10人来たぞ、との連絡が入った。ボクは自転車を飛ばして、一目散にホテルへ向かった。

当日は午前8時から、学校側主催の歓迎会が校舎内の娯楽室で始まった。この交流会のために室内はきれいに装飾されている。モンゴル式の朝食の後、いきなり音楽の先生が登場。オペラ歌手も脱帽の圧倒的な声量でオルドス民謡を披露。特大の銀碗が学生に一人ずつ渡されていく。バイチュウによる手荒い歓迎。

しかしみんな大学生だったので、そこは若さで全部飲み干していた。一連の儀式や挨拶と生徒の歌や踊りなど、校長自らの司会の下、整然とした雰囲気の中、午前中の歓迎会は終わった。学校側の熱い持て成し振りにはただただ感謝するばかりである。

午後からは大学生にボクの51組と53組の2コマの授業に参加してもらうという形式をとった。教室は狭くて机がぎっしり置いてあるので、十分に動き回ることができない。引き続き娯楽室を使わせてもらうことになっていた。

堅苦しいことはぬきに、ざっくばらんに交流してほしかった。まずは51組の授業。早大生1人に5人くらいの生徒が群がり、自由に交流を始めたが、生徒のほうは明らかに固くなっていた。もともと、はにかみ屋が多い上に、初めてボク以外の日本人に会って、話し合わなければならないので、無理もない。

これは予想していたことなので、用意していた、ジェスチャーを使った「伝言ゲーム」をやってみた。「かえるがお酒を飲む」とか「ニワトリがズボンを脱ぐ」といった簡単なフレーズを順々に動作で伝えていくものだった。早大生2人、生徒2人交互に後ろ向きに並んでもらう。まず、早大生が生徒の一人を相手に懸命に蛙の飛び真似をする。生徒はキョトンとしている。焦った早大生は蛙泳ぎを始めるが、わからない。最後には「ケロケロ」と鳴きまねまでもして見せたが、ますます何のことかわからない。居たたまれなくなったのか1人の芸達者な生徒が助っ人として出てきて、蛙はこう飛ぶんだ、とばかりにピョンピョン勢いよく跳ねる。それにつられて早大生も跳ねる。この見事な競演にみんな大爆笑。その後彼らはまるで長年の飲み友だちのように、肩を組んで酔っ払いのふり。

これで見事に次に伝わった。それにしても動物の動作や鳴き真似は日本人とモンゴル族とではぜんぜん違う。モンゴル語のほうが音素が多いので、生徒の鳴き真似はより本物に近い。

このゲームですっかり緊張もほぐれて和やかな雰囲気のもと、会話・筆談が進んだ。「あいうえお」から教え始めた自分の生徒たちが、今、目の前で一生懸命日本語を使って自分の言いたい事聞きたいことを相手に伝えようとしている。この交流会は生徒たちにとっていい経験になったと思うし、日本の大学生にも好評だったが、ボクにとっても今までの活動のひとつの大きな成果として忘れることができないし、それからの活動の糧となった。

交流会も終わりが近づいてきて、早大生からの出し物。10人がびしっと並んでの校歌斉唱。応援団張りの振り付けとともに、「都の西北」を歌いだした。ボクの生徒たちはただ呆然とその成り行きを見ていた。「フレー、フレー、オールードース、フレフレ、オルドス、フレフレ、オルドス!」最後のコールが終わった。しばらくシーンとしていた。生徒も終わったとわかっていたが、どう応じていいのかわからず、とりあえずパチパチと力のない拍手をするしかなかった。

この場ではあまり受けなかったように見えた早大の校歌。しかし、早大生は自己陶酔状態。そして、実は生徒たちにも強烈なインパクトを与えていたのであった。それまでモンゴル族中学には校歌はなかったが、この交流会をきっかけに校歌を作る運動が巻き起こるという、思わぬ効果をもたらした。

最後に全員で「乾杯」を合唱して交流会を閉めた。続けて53組の授業も同じように進めて行った。それからマイナス10度くらいの厳寒のグラウンドで、早大生+ボクの生徒チームVSモンゴル族中学代表チームによるサッカーの試合。お互いに白い息を吐きながら、懸命にボールを追いかけた。そして、夜は学校側主催のオルドス式宴会。それにしても早大生は校歌がすき。この宴会を含め、この日4回も校歌を歌いまくり、モンゴル族中学に校歌という概念を植え付けていった。

もうひとつ、緑化のNGOということで、5本の苗木をいただいた。その時はまだ地面が凍っていたので、苗木は一時保管しておいて、4月の半ばに校舎の一番目立つところに植えて、大切に育てられている。気がつくと学校側も日本との交流に積極的になっていた。

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