社長・坂本毅の『バンベン日記』


 

2019,06,27, Thursday 05:41 PM


1994年3月に、また、早大生がやってきた。このように中身のある交流をきっかけに、文通の輪がまた、広がった。生徒の中にはこういう機会を確実にものにして、2人、3人と文通相手を増やしていった強者もいた。

3年の後期、生徒たちは4ヵ月後に受験を控えている。その頃から、自分の将来について熱っぽく語りにくる生徒が多くなってきた。中には日本関係に進みたいという生徒も出てきた。

「僕は、今は理系だけど、日本語に興味があるから、1年浪人して、日本語学科を目指す。」という生徒。「今、オルドスでは砂漠化が進んでいて、実家の放牧もこのままでは衰退してしまう。日本に行って砂漠緑化の勉強をし、故郷の発展に役立ちたい。」あるいは「砂漠にあるいろいろな薬草や元素を研究するために、日本に行きたい。」という生徒など。そういった生徒は確かに実力があり、将来が楽しみだった。しかし、考えてみれば彼らにより困難でより不確実な選択をさせてしまったのかもしれない。そういう時は甘い話など一切せず、ただ「がんばれ」というだけだった。

ある生徒に「最初はなぜ、センセイがわざわざ中国でも僻地のオルドスに来て、日本語を教えるのかわからなかった。砂漠での交流のとき、なぜわざわざ日本から高いお金を出して、砂漠に来てひたすら木を植えるのか、わからなかった。でも今は理解できます。センセイの将来が楽しみですね。」そう言われてはっとした。

生徒の将来も大事だが、ボクの将来はどうなるんだろう。漠然とは考えていた。日本に帰国しても、できれば中国関係の仕事に就きたいと思っていた。できれば内モンゴル、そしてできればオルドスと関係のある仕事に就きたい。でも、どうすればそれができるのか、見当もつかなかった。

こうして時は流れ、生徒たちともお別れの時が近づいてきた。日本語の授業は5月中旬に終了し、生徒たちは受験に向けてラストスパート。ボクも連日連夜の送別会などで、ずっと二日酔い気味。生徒たちと会う時間も少なくなってしまった。

1か月以上、毎日昼夜問わず白酒の宴会。この時期僕の精神状態はとても不安定だった。ある夜、僕は学校以外の友人の家で遅くまで飲んで、フラフラになりながら部屋にたどり着いた。なぜか部屋の屋根の上に登ってオオカミのように吠え続けていた。その後大きな声で日本の歌を歌っていたという。翌日隣のくまさんに聞いた話。まさか僕がそんなことするはずない。最初は冗談だと思っていたが、複数の目撃証言があり、顔から火が出るほど恥ずかしかった。

またある夜、同学年の先生方と宴会。教員の飲み会は学校の娯楽室で行われる。飲まされすぎて、フラフラになりながら外へ出る。トイレを済ませて娯楽室に戻ろうとする。ふと石炭置き場の黒光りする大きな石炭に目が止まる。きれいだなあ。石炭を両手でなでまくる。両手が真っ黒になる。そのまま娯楽室へ。同僚の先生はみんなびっくり。「まあまあ、石炭まみれになっちゃって。」女性の先生がぬれタオルを持って僕の手を拭こうとする。僕はその手を振り払って、彼女の顔に石炭を塗り付けた。みんな唖然。「何をしてるんだ!」お腹の大きな学年主任の先生に怒られる。僕はまるで幼児のように「ワ~ン」と泣き出し、主任のお腹に顔をこすりつけて泣き続けた。

翌日起きたとき、最初は何事もなかったようにコーヒーを飲んでいたが、なぜか手が黒ずんでいる。だんだん思い出してくる。あの修羅場を・・・。女性の先生は僕の日本語の授業を受けていた。ひどいことをしてしまった。反省。そして意を決してその先生の家に謝りに行った。「先生、私は大丈夫ですよ。先生こそ大丈夫?飲みすぎてホームシックになったんじゃないですか。」他の同僚の先生方も「飲んであれだけ暴れて泣けるのは素晴らしい。またひとつオルドス人に近づいたな。」と冗談を言いながら許してくれた。オルドス人のおおらかさを感じた。だから日本ではいつも無表情の僕がオルドスでは自分をさらけ出せたのかもしれない。

日本語の授業が終わってからは、たまに部屋を訪れてくれる生徒たちのおかげで辛うじて僕はこの学校の先生なんだと実感できた。それがないとただの飲んだくれ外国人だ。

ふと気がついてみると、初めて会ったときには幼い顔立ちだった生徒が、今は髭を蓄えていたり、同じ視線で話していたのに、今では見上げなくてはならなくなったり、女子生徒もずいぶん女性らしくなっていた。いつの間にか立派なモンゴル族の男、女になっていた。改めて彼らの心・技・体の成長の過程の中に自分の3年間の活動があったと思い知らされた。

自分がもっと心が広くて行動力があって冗談が言えたらもっと生徒たちや先生方と深い関係が築けた。もっといろいろできたはず。いろいろやりたいことも中途半端だった。いろいろ思い出はできたが、自分は相変わらず心が狭く、気が弱いとても成長したとは言えない。自分を置き去りにして成長していく生徒たちの姿にただただ驚くばかりである。

オルドス最後の夜。アルコール付けになった体を懸命に動かし、部屋を片付けていた。最後の数日は輪をかけて飲んだので、ほどんど思考能力を失っていた。さびしいとか悲しいとかいう感情もない。ただ「もうすぐ終わるんだなあ」という思いしかなかった。

突然生徒たちが部屋の中になだれ込んできた。最後の夜。自習を終えた生徒たちだ。「センセイ・・・。」といった後、生徒の一人がボクにプレゼントをくれた。A3大の手作りのプレート。青地に白くモンゴル語と日本語で文字が書かれていた。日本語のほうは「お互いに思い会うように。51、53班」と書いてあった。「思い会う」の部分を見て思わず苦笑してしまった。

いろいろ話したかったが、何を言っていいのかわからなかった。「センセイ、また遊びに来てください。」「センセイ、受験が終わったら、手紙を書きます。」「センセイ、早くきれいな奥さんを見つけてください」・・・。生徒のほうはいろいろ話してくれたが、こちらがうまく返すことができない。「受験、がんばれよ。」というのが精一杯だった。別れのシーンはどうも苦手だ。「さあ、そろそろ寝ないと、先生に怒られるよ」なんだか、照れくさくなり追い払うように生徒たちを帰してしまった。もっとなにか言ってあげたかったのに。

次の日の朝、ぎりぎりまで片付けに追われた。校庭を前で先生方と記念撮影。記念にもらったモンゴル衣装。オルドスの空のように真っ青でとてもきれいだが、サイズが大きすぎた。生徒は授業中だったが、みんな降りてきてくれた。最後にもう一度記念撮影。何人かの生徒と握手をして、「さようなら」と別れを告げた。学校が用意してくれたジープに乗り込むとものすごい勢いで走り出した。あっという間にモンゴル族中学が見えなくなった。

帰国後、多くの生徒から手紙が来た。ほとんどの場合、「センセイ、こんにちは」と日本語で始まる。しかしその後はひたすら中国語、中にはモンゴル文字で書き綴る生徒もいた。当然こちらはチンプンカンプン。そして最後は日本語で「センセイ、さようなら」。それでも、とてもうれしかった。すぐに返事を書いた。

しかし、時が過ぎていく中で、元生徒との文通は徐々に途絶えていった。ただでさえボクは根っからの筆不精。その上中国語を交えて返事を書くのは大変な労力だ。就職してからはオルドスのことを思い出すことさえなくなっていた。

このままいい思い出としてこの物語は終わってしまうのだろうか・・・。

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2019,06,26, Wednesday 05:36 PM


ボクの部屋には訪問者が多かった。知り合いはもちろんのこと、まったく面識もない人がよく部屋を訪れた。

いきなり部屋に入ってきて、「日本語を教えてほしい」と言ってくる若い女性。「俺は何でもやる。苦労を厭わないから是非日本へ連れて行ってくれ」と言ってくるむさ苦しい男性。「日本のカメラを買ったんだが説明書を中国語に訳してほしい」と言ってくる厚かましいおばさん。断ったり、少し相手をしてみたり、まったく知らない人でも適当に付き合っていた。うっとうしく思うこともたびたびあったが、そういった人たちは自分の希望を素直に伝えに来るだけで、断ってからといって怒ったりしないし、少なくとも悪い人たちではなかった。しかし、当たり前のことだがなかには悪者もいるようで、94年新年早々、こんでもない事件に巻き込まれた。

昼の2時半ごろ、その日の午後は授業がない。ボクは部屋でゆっくりと昼寝をしていた。そこへノックの音。寝ぼけ眼でドアを開けると、若い男が2人立っていた。「ウユン先生はいますか。」と丁寧に聞いてくる。「いや、ここにはいないけど・・・。」話が終わらないうちに、2人組はドッとボクの部屋になだれ込んだ。

「お前が日本人だということは知っているぞ。金を持っているだろう。早く出せ。」ボクは自分でも驚くほど冷静に「お前らこんなことして警察にばれたらどうなるか、知っているんだろうな。今、おとなしく帰ったら警察には言わないからさっさとうせろ。」と諭していた。最初はただ金を出せという程度だったが、ボクがいつまで経っても金を出す素振りを示さないので、2人組は徐々にイラついてきて、凶暴になっていった。

まずタバコの火をボクの顔の近くまで持ってきて、「これでもか」と脅してみせる。なんとしても金は渡したくなかったのでそれでも毅然と断っていたら、最後は一人に羽交い絞めにされ、もう一人に喉元にナイフを突きつけられた。もう抵抗の余地はない。「机の一番目の引き出しに入っているから。」と言うと男たちは急いで、引き出しを開けた。そこには確かに金が入っていたのだが、中身は1元や5角や1角など、クシャクシャになった汚い札の束が無造作に置かれているのみだった。

ここオルドスで生活するうえで、大金は要らない。合計しても日本円で3000円ぐらいだったと思うが、ボリュームがあったのでそれでもうれしそうにポケットに入れていた。同じ引き出しにコンパクトカメラもあったのでそれも盗られた。机の上においてあった8ミリビデオカメラも持っていこうとしていたが、それは日本でしか使えないものだから置いていけ、と言ったら「あ、そうか」と素直においていった。

強盗たちはそそくさとボクの部屋を出て行った。怪我はなかった。しかし、帰り際男の一人が「俺たちはここの組織のものだ。警察にも通じている。もし警察に知らせたら、また来るからな。その時は命がないと思え。」と、捨て台詞を吐いた。襲われている時は割りと冷静だったが、犯人が去った後、急に怖くなって、腰が抜けて地べたに座り込んでしまった。

どれくらい時間がたったのか。ふと我に返って、どうすべきかいろいろ考えた。「とにかく、誰かに知らせなきゃ。」学校の事務所に行くと、こちらが何も言わないのに事務員が「どうしたんだ。」と聞いてくる。それくらいボクの顔は真っ青になっていたそうだ。「実は、さっき強盗に襲われて・・・。」冷静に話そうとすればするほど、声が震えてくる。学校から警察に連絡を入れてもらい、すぐに刑事たちが駆けつけた。

ボクの部屋で指紋を取ったり、ボクに当時の状況を詳しく聞いたりした。最後は似顔絵師がやってきて、これも詳しく顔の特徴を聞いてくる。「目は一重か?髪型は?髭は?歯並びは?・・・。」辞書を片手に時間を掛けて説明した。

その晩、12時ごろ床に着いた。しかし、喉元に突きつけられた刃物の感触が消えない。白昼強盗という大胆不敵さ。「警察に言ったら殺す」と言った犯人の捨て台詞。いつまた襲ってくるかという恐怖心から、なかなか寝付けない。隣では鼾が聞こえる。少し安心する。すると外でカサカサと音がする。「ん、犯人の足音か?」全神経を集中して、外の音を確かめる。どうやら枯葉が舞う音らしい。その夜は一睡もできなかった。ハンマーを握り締めて、夜を明かしていた。

翌朝、また、ドアをノックする音。「俺だよ。」クマさんの声だ。クマさんの部屋で朝食を食べた。「しばらくは怖いだろうが大丈夫。もし犯人が来たら、これでやっつけてやる。」どこで拾ってきたのか鉄パイプを振りかざす。これほど隣人を頼もしく思ったことはない。クマさんは当分、どこにも出かけないで、隣にいると約束してくれた。

日中は刑事たちがひっきりなしに訪れ、犯人の特徴、事件の経緯など聞かれた。夜は東勝の20~30歳の男千人以上の顔写真を見て過ごした。犯人に似た人はいないか。しかし、人の記憶とはあやふやなもので、千人もの人の写真を見せられると、単に人相が悪い人が犯人に思えてくる。

結局、その写真ファイルでは誰が犯人か確証を持って言うことはできなかった。しばらく眠れない夜を過ごし、日中は取調べを受け、ボクはすっかり衰弱してしまった。

しかし捜査は着実に進んでいた。、事件発生後、ちょうど1週間目に犯人は逮捕された。

刑事が犯人逮捕の伝えに来て、そのまま僕をパトカーに乗せて警察署まで。署長室に通されると警察のお偉方がズラッと並んでいる。一人ずつと握手をして最後にテレビカメラの前でインタビューを受けた。その日、オルドステレビのニュースでトップ項目として伝えられた。

金は申告通り200元がピン札で戻ってきた。小型カメラも無事だった。大胆不敵だと思っていた犯人は実はたいした考えもなく犯行に及んでしまったようだ。ボクの記憶はあやふやで捜査にあまり協力できなかったが、校内での目撃者も結構いて犯人の身元はすぐ割れたとのこと。

この事件で、その学期最後の授業が延び延びになって1週間後にやっと行うことができた。生徒たちも心配だったらしく、ボクが教室に入った途端、涙ぐむ女子生徒もいた。男子生徒も何人かはずっと下を向いたまま声だけ出しているという状態。ボクも一時自分でやっていることがわからなくなるほど、たどたどしい授業になってしまった。

最後に今学期のまとめ、来学期のことそれから事件のことにも少し触れ、もう心配要らないから、といって授業を閉めた。終わりの挨拶のときは、今までで一番力強い「センセイさようなら」という声が返ってきた。

この事件でこれまでに経験したことのない恐怖を味わったが、反面先生や生徒たちそして刑事など周りの人たちの暖かさを改めて感じることができた。

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2019,06,25, Tuesday 04:54 PM


93年10月、東勝から150キロほど離れたクブチ砂漠のオンカクバイというところで日本の植林ボランティアの人々と共同で木を植えるという活動を行った。

これは前から是非やりたかったイベントだった。ボランティアの方々に費用を負担していただき、学校側に何度も働きかけた結果、季節的にも、受験を控えている生徒たちにとってもタイムリミットであるこの時期にやっと実現した。ただ物理的な理由から、先生10名、生徒10名しか行けなかったのは残念だった。このボクの活動史上最大のイベントに校長は全面的に協力してくれて、教育局や公安への許認可関係などを一手に引き受けてくれた。

10月12日午前10時、校長を団長とした「オルドスモンゴル族中学植林隊」の一行20名はマイクロバスに乗り込み、一路、クブチ砂漠のど真ん中にあるオンカクバイを目指した。バスは北へ向けて所々アスファルトが剥げている国道を快調に走った。いくつもの丘陵を越えた。左手に巨大な建物が姿を現した。建設中だができたらアジア最大の火力発電所になるらしい。ここオルドスは地下に良質な石炭が無尽蔵に眠っている。その石炭を使って電気を作り、それを電力不足の北京に送るのだという。地元ではしょっちゅう停電する。しかし自分の所の電力事情も省みず、ひたすら首都北京へ電力を送らなければならないとは。悲しいサガである。

途中の食堂で昼食をとった。校長以外は先生も生徒もみんな日本語を学んでいる。校長一人を置き去りにして、日本の話に花が咲く。

再び、バスに乗る。今度は西に進路を変える。アスファルトの道はそこまで。いきなりデコボコの土の道に変わった。土ぼこりで窓も開けられない。お尻が持ち上がるほどの悪路の中、車酔いしそうだが、みんなでオルドス民謡を歌いながら乗り切った。時々羊の群れに行く手を遮られながら、ひたすら西へ西へと進む。約10キロごとに集落がある。最初はレンガ造りの家が多かったが、西に行くにつれて土作りの家が多くなっていく。風景も野菜畑からとうもろこしや高粱畑へそして、いつしか不毛の地に姿を変えた。ある丘を越えたところから、辺りは一面の砂漠になった。いよいよクブチ砂漠。砂が迫って車1台がやっと通れる幅の土道。歌い疲れた先生や生徒たちはぼんやり砂漠の風景を見つめていた。

砂漠の広がる中、何時間走っただろうか。夕日が西に沈む頃、ようやくオンカクバイの植林基地に着いた。そこで日本から来ていた植林隊約20名と合流した。植林隊の皆さんは大学生か定年を過ぎた壮年の方が大部分を占めていた。働き盛りの人は、問題意識がないのか、或いは10日間のツアーにも参加できないほど忙しいのか、日本社会の窮屈さを感じた。

自己紹介の後、NGOの役員の方からの簡単なブリーフィングを受けた。「『サバク』とは乾燥のため植物が生えても、それが増殖しない地域のことを指します。つまり雨が降れば一時的に草などが生えてきますが、日照りが続けばそれらは枯れてしまいます。何年間も生き続ける植物が極めて少ない地域、それが『サバク』です。日本語では『砂漠』と書きますが、『サバク』は砂ばかりでなく、土であったり、礫であったり、岩や塩でできたものもあります。中国では水が少ないという意味の『沙』という文字を使い『沙漠』と表します。」熱心な話が続く。オルドスで砂漠化がどれだけ進んでいるのか、どうすれば草原を取り戻すことができるのか、みんな真剣に聞いていた。

その後、お待ちかねの親睦会を兼ねた夕食。食堂には4つの丸テーブルがあった。1つのテーブルに日中のメンバーがそれぞれ5人ずつ加わった。当初、ボクは校長と同じテーブルに座っていた。校長を除いては日本人と日本語学習者。どうしても日本語中心になってしまう。昼もそうだったので少々気の毒になって、校長に振ると、校長曰く「私は初めて言葉の全くわからない世界を経験した。まるで外国にいるみたいだ。でも、おかげで君がどんなにさびしい思いをしながら、生活しているか、身をもってわかったよ」と言った。しみじみとした、その言葉にはずっしりとした重みがあった。

やがて、ボクは若手の先生や生徒、日本の大学生がいるテーブルに呼ばれて、場所を移動した。話題もこっちのほうが合う。日本の歌を一緒に歌う。「坂本さん、モンゴルの生徒さんたちは、シブイ歌を知ってますね。『北国の春』に『星影のウルツ』に『与作』・・・。これは先生の趣味ですか?」日本の大学生に突っ込まれて、言葉を失ってしまった。「最近は若者の歌も教えてるんだけどなあ・・・。」話題を無理やり「あっち向いてホイ」にもって行った。これが大いに受けた。

こちらがゲームなどで盛り上がっている間、校長の座っていた「年配者のテーブル」のほうは険悪なムードになっていた。後から聞いた話だが、校長は言葉が通じない中、校長なりの流儀で友情を示そうした。銀碗にオルドスバイチュウを注いで、日本の年配の方々に飲ませ始めたのだ。だいたいは苦しみながらも、何とか飲み干したようだが、一人、どうしても飲めない人がいたらしく、執拗に飲ませようとする作法に堪らず、銀碗に入ったバイチュウを床に捨ててしまった。これはモンゴル族の作法に反する行為。しかしその人は酒が飲めない人に無理やり飲ませるやり方のどこが礼節だ、と主張。険悪なムードのまま、そのテーブルの人たちは各自の部屋に戻ったそうだ。ボクたちはそんなことが起こったとは露とも知らず、12時過ぎまで、歌い騒いでいた。

次の日、6時に起床。やや二日酔い気味だが、そんなことは言ってられない。7時にまたバスに乗り、5キロほど離れた所にある植林サイトに向かった。砂漠のど真ん中に確かに森ができている。これには感動した。そこを通り過ぎて、その日ボクらが木を植えるのはやはり砂漠。午前中のノルマは1000本。40人で植えるのは大変だが、ここをさっきのような森にしようという強烈な動機付けもあって、みんな素早く作業に取り掛かった。

まず穴を掘る。深さ80センチほどの穴を掘らなければならない。砂なのでスコップがザクッと深くまで刺さる。掘りやすいといえば掘りやすいが、掘った後からどんどん砂が穴に入り込んでしまう。そこでモンゴル族の生徒が手本を示す。スコップを垂直に下ろし四角い穴をいとも簡単に掘ってみせた。オルドスの人たちは小学校の時から年に何回か「義務労働」に駆り出されて砂漠で植林作業を行う。砂漠に穴を掘るのは朝飯前だ。

穴にはポプラの苗木を挿して、素早く砂を戻す。苗木が垂直になるのがポイントだが、なかなか難しい。うまくいったら足で周りを踏み固めて、仕上げにバケツ1杯の水をかける。水は100mほど離れた所にある井戸から汲んで運んで来なければならない。穴掘り・苗木挿し・水かけ、3人1組になって、2mほどの間隔をあけながら、木を植えていく。体力のある人ない人、それぞれ助け合いながら自分のできることをやっていく。見事なチームワークで作業が進み、午前中に予定を上回る1500本の苗木を植えることができた。

3時間ぶっ通しの肉体労働に、ヘトヘトでペコペコ。昼食はご飯に野菜炒めをかけただけの質素なもの。みんな貪るように食べた。10月とはいえ、真昼の砂漠、日差しはきつい。それぞれ、木陰を探して一休み。昼寝をする人、トランプに興じる人、砂に文字を書きながら、筆談をする人、そんな交流の姿をボクはしっかりカメラに収めていった。

2時間ほど休んで午後の作業。少々風が強くなって砂が舞う中、少しも怯むことなく作業を続けた。3時にはその日予定されていた2000本の木を植え終わった。みんな砂漠に刺さった細々としたポプラの苗木を見つめていた。風と闘い、砂と闘い、乾燥と闘い、寒さと闘わなければならない。この2000本の苗木のうち、何本が来年の春を迎えることができるだろうか。10年後に是非この地に立っていたい。そう強く思った。

時間があったので帰りは「沙漠ウォッチング」ということで5キロの道のりを歩いて帰ることになった。みんな思い思いグループを作って、ゆっくり寄り道をしながら基地に戻った。砂漠の砂紋をじっと見ているグループ、糞ころがしが野鼠の落とした糞を丸めているところを写真に収めているグループ、砂漠に生えている薬草の採取をするグループ。

この日、ボクの出番はほとんどなかった。交流のためのゲームなども考えてはいたが、一つの目標に向かって、作業をともにした仲間たちには何も必要なかった。少しだけ寂しさを感じたが、裸足になって砂をザクザクと踏みしめる感覚を楽しみながら、それぞれの交流の姿を見つめていた。

砂漠の砂を持って帰ろうと、空になったペットボトルに砂を詰める。手で砂を掬ってみると、下のほうはかすかに湿っている。そして砂漠のど真ん中にも所々、水溜りがある。そこが決して不毛の地でないことを物語っている。きっと再生できる。かのジンギスカンが惚れ込んだという、素晴らしい景色を想像しながら基地に戻った。

夜は食堂で夕食をとった後、巨大なモンゴルゲルで打ち上げ。まず、蒙古族中学側から感謝の意味を込めて、オルドス民謡を歌いながら、銀碗でバイチュウを勧めていく。決して無理強いはしない。それを受けた日本人もモンゴルの礼節に則って、右の薬指でお酒を弾きながら、天と地と人に感謝して飲めるだけ飲む。日本側からも答礼の意味を込めて、同じように酒を勧める。歌はもちろん日本の歌。幅広い世代の中、みんなで歌えるのはやはり童謡が多かった。先生たちが終わると生徒にも酒が振舞われる。一気に飲み干す生徒に歓声が上がる。酒に関する文化の違いを乗り越えたひと時だった。

それから、ボクの部屋に男子生徒と何人かの日本のボランティアが集まって遅くまで、語り合った。それぞれの砂漠に対する思いをぶつけ合う。日本人にとっては憧れを持つ砂漠。しかし生徒たちにとっては現実。生徒の一人が少しずつ移動する巨大な砂丘に家が飲み込まれた話をする。もう一人が何百頭もの家畜が餓死した話をする。「砂漠のど真ん中での植林もいいけど、今度、機会があったら是非ボクの故郷に来てください。砂漠のすぐそばで生活をしている人々の姿を見に来てください。」あるおとなしい生徒がそう訴えていた。

次の朝、基地のすぐそばで記念植樹を行った。プラスチックのプレートに名前と感想を書いて、それぞれが植えた木に掛ける。何を書いていいか考えがまとまらず結局「砂と水と木と草と動物と人」とだけ書いた。ボクたちはもう基地を離れる時間。日本のボランティアの方々は引き続き植林を続ける。お互いの住所を書き合ったり、写真を取り合ったり、抱き合ったり、泣きあったり、それぞれの別れを惜しんだ。ボクの史上最大のイベントが終わった。

帰りのバスの中、やり遂げたという達成感はなかった。ボクの心は別のところにあった。「第二の故郷、オルドスで自分は何ができるのだろうか。これから何をしなければならないのだろうか。」荒涼とした風景を見ながら、ずっと考え続けた。

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2019,06,24, Monday 03:47 PM


第37回:任期の延長

ボランティアの任期は2年だった。しかし、文通や日本の学生との交流も経験したせいか、生徒たちの日本語に対する意欲は高まるばかりだった。それに高校1年から、持ち上がりでずっと教えてきたのですっかり愛着が湧いてきた。ボクはどうせ日本に帰っても何もすることが決まってなかったし、なんとか彼らが卒業するまで見届けたいと思って、任期を1年延長することにした。

しかし、生徒たちは高校3年生。中国の受験戦争は日本よりも厳しく、この時期日本語を教えるということは、日本の高校3年生の生徒に教養科目として中国語を教えるようなもので、生徒たちの負担は相当大きい。だから彼らの意志を尊重して、今まで教えてきた2クラスのうち、続けて勉強したい生徒だけを集めて1クラスにして、週5時間の授業を行った。

大変なスケジュールの中、50人の生徒が日本語を続けると言ってきた。受験勉強がきつくなったらいつでもやめていいからということで始めたこのクラスだったが、やはり1人抜け2人抜け最後まで残ったのは30人ぐらいだった。

あるノッポの生徒は僕の部屋にやってきて「先生、ボクは日本語の勉強は好きだけど今は勉強をする余裕がありません。来年何とか内蒙古大学に入って将来は体育の先生になりたいんです。でも大学に入ったらまた日本語を勉強をしたいのでそのときは日本にいる先生と文通がしたいです。」こういいに来る生徒もいてうれしかった。

教室にだんだん空いた席が多くなっていくのを見るのはつらいもの。しかしそれに反比例して生徒たちの意気込みは上がっていった。空いた席を補うように大声で授業に参加している。このような状況でお互い教え学び合っていると、なんだか新たな信頼関係が芽生えてきたような気がした。

こうしてボクの活動は「広く浅く」から「狭く深く」へと移っていった。

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2019,06,22, Saturday 04:20 PM


ジンギスカンは今でもモンゴル族の英雄。その陵はオルドスのほぼ中央のイジンホロというところにある。東勝から南に車で1時間。

そう、かのジンギスカンが西夏遠征時に鞭を落としたとされるところ。今は古代のモンゴル宮殿を模した3つのドームを有する巨大な建物が聳え立っている。

実際はここにジンギスカンが眠っているわけではないが、年に4回祭事が執り行なわれ、モンゴル民族の聖地となっている。ボクは何度もこの陵を訪れたが、特に早春の祭事を学校の先生たちと見に行ったときは印象深かった。

その日は朝から、日本語を勉強している先生とその夫、小学校2、3年くらいの子供と一緒に車をチャーターしてジンギスカン陵へ向かった。

車窓から周りを見渡すと東勝の周りのような地層がむき出しの浸食溝はあまり見られない。乾燥した大地に所々木が生い茂っている。アフリカのサバンナのような風景が続いた。

オルドスの冬はひたすら茶褐色の大地、単色の世界だったが、その時はちょうどポプラの葉が芽吹く頃で、緑がまぶしい。1時間で陵まで着いた。すでに大勢の人が詰め掛けていた。ボクらは普段着だったが、さすがに祭りの日、モンゴル衣装を身にまとった人が多かった。馬で駆けつけていた人もいた。

陵の外側ではラマ僧がお経を唱えている。その周りには熱心な信者が懸命に祈りを捧げている。モンゴル族は大体清朝の頃からラマ教を信じるようになったという。でもここはジンギスカンの陵、少し違和感があった。

陵の中に入ると、先祖代々ジンギスカン陵の「墓守」を続ける「ダルハット」と呼ばれる人たちによる儀式が行われていた。正面の真ん中のドームには巨大なジンギスカンの像が祭られてある。その前に祭壇があり、そこに酒や羊や様々な装飾品が供えられていた。

「ダルハット」たちがジンギスカンの業績を称え、人々の平和を祈る経典を唱える。儀式が一段落すると、祭壇に供えられていた酒が下ろされる。「大王」と慕っているジンギスカンの酒を酌み交わすことで、それぞれの血のつながりと固い絆を確かめ合う。

そして、再びお経が唱えれらる。ドームの奥のほうに行くと、今度はフビライを祭る祭壇があり、そこでも多くの人が跪きながら、何事か祈っていた。

宮殿の外に出た。至るところにモンゴル文字が書いてある。連れの先生が1つ1つ意味を教えてくれた。ボクにとってはさっぱり読めない代物。但し、上から下に豪快に一筆書きで書かれている文字を見るのは気持ちいい。この文字、実は13世紀、モンゴル軍がイスラム圏に進行したときにイスラム文字を持ち帰り、元々横文字なのを縦文字に改良して取り入れたのが始まりだという。なるほど横向きにしてみると何となく、イスラム文字っぽくなる。また、1つ勉強になった。

中庭の中央には大きな樽が置いてあった。人々はその中に持ってきた自家製の「馬乳酒」を流し込む。やがてその樽が馬乳酒でいっぱいになり、それが零れる方角に幸があるという。その年は南東方向。残念ながらモンゴル族高校のほうではない。

その他、神聖な馬に頭を舐めてもらったら、良縁に恵まれるという言い伝えもあり、果敢に挑戦する女性もいた。

昼食は陵の外で羊料理を食べた。羊を食べながら、先生の夫の話に耳を傾けた。その人は歴史が専門。得意げに今日の儀式の重要性を説いていた。やがて話はモンゴル族誕生の伝承へと変わっていく。

「天より降りてきた青き狼、そして白い雌鹿。大いなる湖を渡り、モンゴルの地にやって来た。そして子を授かった。モンゴル族は目に火あり、面に光ある青き狼の子孫である。」調子よく話は進む。「青き狼の軍団は恐れを知らなかった。モンゴル軍は陰山山脈を越え、黄河を渡り、オルドスの高原に進行してきた。そして西夏を滅ぼし、宋や金を攻め中原を落とし、更にヨーロッパへ至る一大帝国を築いたのである・・・。」

そう得意げに言った後、ため息を一つ。「だが、モンゴル帝国は歴史から消えた。」それを境に自慢話から自虐話に変わった。

「最近のモンゴル族には馬に乗れない者もいる。モンゴル語を話そうとしない若者が多い。男は酒ばかり飲み、まともに働こうとしない。・・・。」笑いながら肩をすくめた。そして最後に「でも、何とかしなきゃね。」と自分に言い聞かせるように呟いた。

いつまでも過去の栄光にすがってはいられないという強い意志を感じた。


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