社長・坂本毅の『バンベン日記』


 

2019,05,31, Friday 05:34 PM
オルドスは鉄道もなければ空港もない。通信事情もよくない。いわば陸の孤島だ。

ボランティア派遣元のJICA北京事務所に緊急な用事で連絡しようと思ったら、まず、郵便局へ。長距離電話をかけるための手続きを済ませて、後はひたすら待つ。だいたい10人以上待っている。運がよければ30分くらいで呼び出され、電話ボックスに入るとオペレーターが電話をつなげてくれる仕組みになっている。運が悪ければ、2,3時間待つことになる。挙句の果てにボックスに入っても「今は回線の状態が悪いので、明日また来てくれ」と言われたこともあった。

そのほか、中国に長期滞在をする場合は必ず必要になる「外国人居留証」の発行は2ヶ月も遅れたし、日本から生活費を送金してもらうための外貨用の銀行口座開設には半年以上もかかった。当時、外国人は中国人が使う人民元ではなく、兌換券という通貨を使うようになっていたのだが、オルドスでは「こんなお札は見たことがない」と受け取ってくれない。こんな状態だったので、その年の4月に北京事務所のボランティア調整員がボクの活動を見に来ることになった。

調整員が視察に来ると聞いて、ボクはなぜか不安になった。確かにここでの生活にも慣れて、活動も楽しくやっていた。でも、ほかのボランティアに比べてボクの活動はどうなのか、それまでは全く気にすることはなかった。いわば「井の中の蛙」状態だった。しかし北京からボランティア担当の調整員が来る。その人は当然、いろんなところでボランティアの活動を見ている。自分の活動がどう評価されるか気になっていたのだ。

それに、今まで生徒との関係はよかったし、先生との関係もよくなりつつあった。しかし学校の指導者たちとの関係は、あまりよくなかった。指導者たちは相変わらず日本語には無関心なようで、教科書はいつまでたっても来ない。本当は特に用事がなくても、こっちから進んで指導者たちと接していかなければならないのに、いろいろ働きかけても無駄なような気がしていた。自分のことは自分でやる、といった姿勢で、指導者に助言や許可を得ることなく進めてきた。

一方では夜、遅く帰ったり学校以外の人と付き合ったりしていると「君の安全のために・・・。」といろいろ干渉してくる。それがまた、うっとうしかった。だから宴会などを除いて、指導者たちとの交流はほとんどなかった。だから調整員の視察の件で学校側がうまく対応してくれるか心配になっていた。

当日はまず授業を見学してもらうことになった。いつもはボクと生徒だけの空間に、その日は調整員のほかに校長や地方政府の関係者もいるという中で生徒はもちろんボクまで非常に緊張した状態だった。全体のコーラスはいいが、個人に当てるときは心配だ。初めての授業のときのように、生徒が突っ立ったままで何も言えなくなったら、どうフォローしていいかわからない。

しかしこの半年の間に彼らは確実に成長していた。1人でもしっかりとした発音で読むし、会話練習のときもこっちの思った以上にアドリブなどを交えながら、やってのけた。おかげでボクも調子が出てきて、メリハリのある授業になった。会議やセレモニーも順調に行って、オルドス式の宴会も大いに盛り上がった。

ここまではよかった。しかし宴会の後、調整員が泊まっていたオルドスホテルの部屋に関係者が集まったとき、思いもよらぬ事態となった。同行していた内蒙古自治区政府の日本担当の人が「この学校じゃ、条件が悪いので生活が大変でしょう。実は自治区の首府フフホト市にも日本語教師が必要な学校がある。そこはオルドスより都会だし、生活面でもトイレ、シャワーつきの部屋はもちろんいろいろ考えてくれている。まだ半年を過ぎたところだし、そっちに移ってもいいんだよ。」と言ってきた。

まさに寝耳に水である。その時校長はむっとしながら「私の学校は、それほどお金に余裕がない。もし今の生活条件が我慢できないなら、仕方ない。ほかのところに行くしかないな」と言い放った。

今までボクは教科書がいつまで経っても来ない件やテストの実施の件など業務の面では何回も要求したし時には文句も言った。しかし生活上の不満は言ったことがなかった。この突然の提案にいとも簡単に開き直ってしまった校長の態度が悲しかった。その後、校長は発言を軌道修正して、やはり当校では日本語など外国語の教育が必要なんだ、とかボクの部屋はあくまでも臨時のものですぐに建設に取り掛かる、だからこれからも君にいてほしい、と言った。

しかしボクの心は晴れない。彼の言い分をよく聞いてみると、今学期から社会人向け日本語コースを始めたので、いまさらやめる訳にはいかない。だから残ってほしいとのこと。生徒のほうはどうでもいいといった感じだ。こんな指導者のもとで不満を抱えながら活動を続けるより、いっそう新天地で一からやり直したほうがいいのかもしれない。

結局、どうするかはボクの判断に委ねられたがすぐに結論を出すことができず、「一晩考えてみる」ことにした。学校まで夜道を校長といっしょに自転車に乗って帰ったが、一言も言葉は交わさなかった。ただ校舎のまえで別れるとき、「じゃ、また明日」とさびしそうに手を振っていた校長の姿が、印象的だった。

その夜はいろいろなことが頭をよぎって、結局寝られなかった。教室で日本語を一生懸命勉強している生徒の顔、冬休みに部屋に招いてくれた先生方、校長のさびしそうな姿。一方、フフホトでの全く新しい活動も想像できた。

いつの間にか、部屋の外から生徒たちのささやき声が聞こえてきた。まもなく朝の自習時間。モンゴル語で何を言っているのかわからないが、とにかくボクを起こさないようにとの配慮が伺える。教室があいたのか、みんないっせいに教室に入り込む音。そして静かに自習、自習が終わるとグランドに出てクラスごとに隊を組んでランニングが始まる。ボクの部屋の窓からはその様子がよく見える。51組が走っている。53組もほかの生徒たちも風の強い中、砂を浴びながら懸命に走っている。

「やはり、ここに留まろう」

結論は始めから決まっていたのかもしれない。どうしたって一度教え始めた生徒や先生たちを見捨てることはできない。たとえ指導者が日本語を重視していなくても別に彼らを相手に日本語を教えるわけではない。教える対象がやる気になっているのだから、それだけでやりがいはある。それに学校以外でもここオルドスの人々とのつながりができてきたし、この地を第二のふるさとと呼べる環境ができてきていた。

今まで消極的でうまくいっていなかったところもある。特に指導者たちとの交流には消極的になっていた。一から出直したほうが、もっとスムーズにいくかもしれない。でもせっかくそれまで少しずつ積み上げてきたものを途中で捨て去ることはできない。今までの人生、そんなことばかり繰り返してきたような気がする。

調整員の視察で学校側の本音や無理解は改めて感じたが、それはこちらのアピール不足の裏返し。それまで以上に何があってもここで最後までやり抜こうという決意を持つきっかけになった。

実際は何も変わらない道を選んだが、調整員の視察がひとつの大きな転機になったことだけは確かだった。

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2019,05,31, Friday 05:28 PM


蒙古族中学の一角に託児所があった。教職員の1歳から6歳までの子供20人くらいが通っていた。そこの園長先生に、「週に1回5、6歳の子供を対象に日本語を教えてほしい」と頼まれ、とりあえず一度行ってみることにした。

グラウンドの西側、教職員住宅の並びの一角にその託児所はある。レンガ造りのフラットで外門をくぐると中庭があって、ちょうどそこで体操や行進の練習をやっていた。部屋は3つあって、それぞれ2歳まで、3,4歳、5,6歳の部屋に分かれていた。

ボクは5,6歳の部屋に入った。10人くらいの子供たちが小さな椅子に座って待っている。「老(ラオ)~師(シー)~好(ハオ)」とめちゃくちゃ間延びした挨拶を受けた。さっそく日本語に取り掛かる。

まず、「こんにちは」「さようなら」などの簡単な挨拶言葉。みんな手を後ろに組んで不自然なほど姿勢よく授業を受けている。後ろには園長先生が目を光らせている。姿勢を崩したり、騒ぎ出すと容赦なく叱られる。時には体罰もあるらしい。

みんな大きな声でひたすら日本語を繰り返す。何だか強制的に日本語を勉強させている気になった。果たしてこれでいいのだろうか。授業は15分ほどで終わった。あとは子供たちの遊戯の様子を見ながら、園長先生と雑談。「この時期の子供はしつけが一番。ちょっと目を離すとすぐ勝手なことをし出すのよ。これからも安心して日本語を教えてちょうだいね。ちゃんと見張っているから。」複雑な気持ちで託児所を後にした。

その後、毎週水曜日の午前中は託児所に通った。挨拶言葉のほか、部屋に飾ってあった絵にある動物などの名前、数字などを教えていった。あと「春が来た」や「幸せなら手をたたこう」などの歌も教えた。園長先生の監視は厳しいものの、子供たちはとても喜んで学んでくれているようだし、なんといっても子供はかわいい。ボクにとっても週に1回、楽しいひと時になっていた。そこで、なぜか毛沢東の誕生日も一緒に祝った。

ある日、託児所での授業を終えてグランドを歩いていると、託児所の子供たち5,6人がワーッと叫びながらボクのほうへ走ってきた。そのうち一人の子が日本語で「わたしはくさいです」と言った。

一瞬耳を疑った。「くさい?・・・」そんな言葉、教えたことがない。誰に教わったんだろう。そのうちほかの子供もボクを囲んでニコニコ笑いながら「わたしはくさいです」「わたしはくさいです」を連発。確かに乳臭かったが「くさくない、くさくない」と言いながらその場を後にした。ボクの生徒が悪ふざけで教えたのだろう、そのくらいに思ってあまり気にしなかった。

しかし、後になって子供たちがなぜ「くさい」と言ったのか理解できた。モンゴル語は言葉のはじめにラ行が来ない。だから外来語でもたとえば「ラジオ」は「アラジオ」、「ロシア」は「オロス」というふうにラ行が語頭に来ないようになっている。

あの時、子供たちがグランドで何を言いたかったのか。考えてみる。そういえば、そのとき歳の言い方を教えていたのだ。そう、彼らは「私は6歳です」と言いたかったのだ。

「ろくさい」の「ろ」は語頭にきたので、本能的に省略してしまったのだろう。そういえば、日本語も固有の言語である大和言葉はラ行が語頭に来ることはない。ひょんなことから、日本とモンゴルはつながっていたんだと実感した一幕であった。

託児所の授業は楽しかったが、何を教えてもただの鸚鵡返し。子供たちもボクも飽きてしまって、そのうち自然消滅してしまった。

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2019,05,28, Tuesday 05:01 PM



2月24日から後期の授業が始まった。オルドスに来てちょうど半年、コミュニケーションもある程度できるようになり、友だちも増えて、生活にも慣れて、活動に本腰で取り組む体制が整ってきた。

この学期から週に3回、夜7時半から9時まで蒙古族中学の先生や、一般社会人を対象にした日本語講座が始まった。もともとモンゴル族は日本にとても興味を持っていて、前から日本語を教えてほしいといったリクエストがあったのと、将来、ボクが帰国した後もこの学校に日本語教育がしっかりと根付くようにとの思いで始めたものだった。

とはいっても、夜間クラスの受講生のほとんどがこの学校の先生。まだ若く教師としての経験もほとんどないボクがこの学校の「先生の先生」としてやっていけるのか不安もあった。

最初の授業。あいさつなど短いフレーズから始めたが、とてもやりずらい。教室には40人程度集まっていた。若手の教師が中心だが、中には50歳ぐらいのベテラン教師から9歳になる先生の子供まで混じっていた。他に町のホテルの従業員や銀行マン、工場の作業員もいた。顔を赤らめて「こ・・・ちわ」とやっているのを見ると、本当に心苦しい。だいたい年配の人ほど発音が悪いのでどうやって注意して矯正していけばいいか考えてしまう。講師も受講者も、お互いにオドオドしているというぎこちない授業が続いた。

年配の人が、あまりにかわいそうなので、いっそうのこと会話の練習をやめて、講義のようにこちらが一方的に言いまくる授業に変えようかとも思った。このクラスもまた明確な目的がない人がほとんどなので、話すことをそれほど重視しなくてもいいような気になっていた。中国では外国語の授業といえども「教科書を教える」授業が一般的だった。教科書を何べんも読んで丸ごと暗記してしまうということが多い。

ボクの授業は教科書はほとんど使わず、実物や絵を使って進めていくので、戸惑う人が多いし、恥をかきたくないという本能もあるので、なかなか授業が盛り上がらない。はじめは40人いた受講生も2週間くらいで20人まで減った。9歳の子供もいつの間にかやめていった。

ただ、残った受講生はとても意欲的。慣れてくるとともに、学生時代に戻ったようで気が引き締まるとか、いままで受けたことも、やったこともない授業なので、新鮮だとか、自分の授業にも応用したい、といった声も聞かれるようになった。それからは少し自信をもって教えられるようになった。

ある晩、授業をやっている最中にパッと明かりが消えた。停電だ。教室は真っ暗になった。そのときはちょうど乗ってきたところだったので、やめたくなかった。受講生はすかさずローソクを取り出す。ここでは何のアナウンスもなく突然停電になることがよくあるので、どこにいてもローソクは欠かせない。ローソクのほのかな明かりがぼんやり教室全体を映し出していた。

その薄明かりの中、何か宗教の儀式でもやっているかのように、整然とした日本語が響き渡った。そのうち、何人かの受講生が懐中電灯を照らし出した。「うん、これは使えそうだ。」こちらや黒板のほうを照らしてもらって授業を続けた。

直接、光を受けるのでかなりまぶしいが、なんだかスポットライトを浴びながら授業をしているようで、不思議な気持ちがした。授業の出来はイマイチだが、こういうときほど教師と学生が一体となって授業を作り上げることができる。

授業が終わって、何人かの受講生が残った。なぜか、ひとりの外套のポケットにはバイチュウとお猪口とヒマワリの種が忍ばせてあった。ローソクの明かりのもと、教室で静かな宴が営まれた。

この夜のクラス、3回に1回は学校の行事が重なったりして、授業ができなかった。あまり先のことまで考えても仕方がない。与えられた不確実な時間の中、せめて各受講生がなにか身につけられるものをと心がけて、その日その日の授業を組み立て、少しずつ進めていった。

このクラスの受講生とは授業以外でもいい関係を築けた。夜授業がない日は時々受講している人のうちを訪ねた。何の理由もなくフラっと訪ねるのは少々気が引ける。何となく照れくさく感じてしまう。

幸いにして、ボクの部屋にはテレビがない。「ちょっとテレビが見たくなった」と言って、友人のうちへ。そうするとだいたい温かく迎えてくれて酒につまみを用意してくれて、テレビを見ながらいろいろ雑談をする。中国のテレビを見てもわからないし、つまらない。

本当はテレビなんかどうでもいいのだが、ボクはテレビを理由に正々堂々と友人のうちを訪ねる。日本では部屋にいるとき、とにかくテレビをつけていた。テレビに奪われていた夜の時間を自由に選択できるようになった。本もゆっくり読めるし、テレビがないことを理由に堂々と人を訪ねることもできる。ボクの人生の中でテレビなしの生活をしたのはこの3年間だけ。

普段ほとんど本を読まないボク。オルドスでは魯迅、夏目漱石、宮沢賢治などの全集を読破。ゆっくりとした時間が夜のオルドスに流れていった。
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2019,05,27, Monday 05:12 PM


冬休みは学校の食堂も閉まっているので、当初ボクは学校の外で食事をしていた。そのうち学校の敷地内に住んでいる先生たちが「それでは不便だろう」と代わるがわるボクを家に招いてくれるようになった。一日に一軒、毎日昼と夜、食事をご馳走になる。といってもほとんどは今まで話したことのない先生方ばかり。どう交流していけばいいか、お互いに手探り状態。

ある日の11時頃、ボクの部屋のドアをたたく音。開けてみると8歳くらいの女の子が立っていた。色白で赤い頬っぺた、アルプスの少女ハイジを思い出す。「あなた日本人でしょう。パパが呼んでるから来て。」ボクはハイジに手を引かれてその先生のうちへ。

ほとんど共通の話題がない中、まずはハイジが話題を提供してくれる。「これは日本語でなんて言うの?」「ハシ」、「ハシ?」「それじゃ、橋だよ。そうじゃなくて、ハシ」「ハシね」「うまいうまい。ボクの生徒より発音がいいな」「だってパパ、あたし日本に行こうかな」しばらく和やかな会話が続く。ハイジは完璧に自分の役割を果たした。しかしやがて日本語に飽きたのか、部屋に引っ込んでしまった。

子供は何にでも興味を持つが飽きっぽい。さて、次の話題が見つからない。ただ静かにバイチュウを飲む。とにかくひっきりなしに順番に杯を挙げる。目で合図して、お互いの友情を確かめるために、飲み干す。そして苦しい顔を笑顔で押し殺して、つまみを口に放り込んで、ぎこちない会話をし、話が詰まると、また杯を挙げる。

自分がもっと魅力的で会話上手だったら、こんなに酒を飲まなくても楽しめるはずだ。ボクには酒の魔力を使うしか術がなかった。しかし、これは確実に効く魔力。徐々にお互いに気持ちがほぐれ、愉快な気分になる。どうでもいいことを一生懸命に語り合い、納得し合う。3時ごろまで宴が続き、また、ハイジに手を引かれて部屋に戻る。そのまま、ベッドに倒れこむ。

午後6時、また、ドアをノックする音。まだアルコールが抜けていない。頭が重い。もう昼に散々友情を確かめ合ったから、もういいじゃないか。断ろう。ドアを開けるなり「ちょっと熱があるみたいなんだけど・・・。」とおでこに手を当ててアピールしてみるが、ハイジは「大丈夫よ。こうすれば直るから。」と軽くお呪い。呆気にとられ怯んでいる間にまたボクの手を引いて先生のうちへ。

ハイジはあくまでも自分の役割を淡々とこなしていく。まるで仮病がバレてバツの悪い子供のように手を引かれるボク。夜は他に若い夫婦3組も来ていてもっぱら、ホームパーティー。
もう、話題を探す必要はない。昼の続きのように最初からハイな状態で歌を歌ったり、踊ったり。そこの客間はせいぜい8畳くらいしかない。そこにソファーとテーブルがある。それを端によけて、社交ダンスが始まる。猫の額ほどのスペースで3,4組がペアになって踊っているのだ。肩が触れ合うどころではない。お尻がぶつかる。足が絡まる。テーブルを蹴飛ばす。その度に大笑い。疲れたらソファーに座って酒を酌み交わす。歌のうまい人が歌い出せば、また、それに合わせて踊りだす。何の憂いも迷いもない。ひたすら楽しい時間が夜更けまで続いた。

次の日、ふと目を覚ますといつの間にか自分の部屋。しかももう朝の11時を回っていた。そしてまた、ノックの音。今日は別の先生の番。果たしてどんな持て成しが待っているのか・・・。 

この冬の荒修行でボクは確実に酒が強くなっていた。キャップ1杯で倒れていたのが、1日1本飲めるようになっていた。そしてオルドスで生活するうえでもうひとつ欠かせないのが羊。毎回惜しげもなく振舞われる羊料理。はじめは苦手だった。臭いがだめだ。北京で食べた羊はその臭いを消すために様々なスパイスが加えられていたのであまり気にならなかった。ここオルドスの羊は何の工夫もない。ただぶつ切りの羊を塩茹でにするだけ。食べても味がない。口元からモワッとした羊の臭いが漏れるのみだ。しかし、人間とは最も慣性のある動物だと誰かが言っていたとおり、毎日、それを食べ続けることによって、それを食べなければ生きていけないと本能が悟る。

この冬のある時点を境にボクは羊が大好きになっていた。特に寒暖の差が激しく、砂漠の中、広い範囲を歩き回り、乾いた草を食んでいる身の引き締まったオルドスの羊が一番だ。その骨付き肉を手掴みで食べるのがいい。余計な細工はいらない。塩茹でが一番シンプルで一番贅沢な調理方法に思えてくる。新鮮で素朴な肉の臭いが食欲をかき立てる。頬張った時の歯ごたえ、肉汁が口の中で飛び散るときの感覚、噛み締めるほどにほのかに味がする。これこそ羊そのものの味。スパイスを効かせ味をごまかすのはもったいない気すらする。

この冬の修行でオルドスの人と交流する術も少しだけ習得できた。しかし、これは相手がいること。簡単にはいかない。自分だけが修行しても効果はない。今思うと、この学校の先生たちもボクとどういう付き合い方をしたらいいか、戸惑っていたようだ。ボク自身もそれまでは正直言って、生徒だけを相手に活動していたような気がする。これからは、先生方ともうまくやっていけるんじゃないか、そういう気になってきた。

そして、バイチュウで脳ミソがとろけてしまったのか、何でも受け入れられそうな気になった。例えば住むところ。僕のために家を用意してくれると言っていたのに、いつまで経っても校舎の中。でももうそれに慣れてしまった。家を建てるのは費用がかかる。学校にはそんなに金はないし、2年間という期限付きなのだからずっと校舎に住んでやろうと思えるようになっていた。部屋は狭いが片付けは楽。トイレ掃除も必要ない。

生徒の教科書が来なくても焦る必要はない。下手な字で書いた自作のプリントを使ってもボクより上手に字を書く生徒がたくさんいる。工夫次第で独創的な授業をすることもできる。それに教科書は有料だから、その分生徒の経済的負担を減らすことにもなる。そう思えるようになった。

1ヵ月半の冬休み。使い道は本人次第。同じボランティア仲間と広い中国を旅行したほうが面白かったかもしれない。でもボクは一冬をオルドスで過ごした。先生方やその家族のほのぼのとした持て成しに甘えながら、知らず知らずのうちにこの地を「第二の故郷」と呼ぶための土台を作っていった。

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2019,05,24, Friday 05:17 PM


1992年1月17日から冬休みに入った。寮に住んでいた生徒たちは、終業式もせず、この日の朝、長距離バスに乗って何百キロも離れたそれぞれのふるさとへ帰っていった。

ボクも冬休みは、親しくなった先生や生徒のふるさとを訪ねて過ごそうと思っていた。オルドスに来て半年経ったが、ボクはここ東勝の町以外どこにも行っていなかった。せっかく蒙古族中学に派遣されながら、彼らの本当の生活、牧民の生活については何も知らなかった。いつか見てみたいと常々思っていた。

しかし当時そういった地域はすべて未開放地区。外国人が未開放地区に行く場合、通行許可証を申請しなければならない。ということで町の公安局に許可証の申請に行ったが、冬は安全面においても健康面においても危険が大きいということで、許可してもらえなかった。友人の家を訪ねるというごく当たり前のこともできない中国の外国人管理にはあきれてしまうが、いまさら南方を旅する気にもなれず、結局その冬休みはずっと東勝で過ごすことになった。

中国で最大の祝日は春節(旧正月)である。その年は2月4日だった。大晦日はオルドス政府の友人のうちで過ごした。奥さんと9歳になる娘がいた。しばらく餃子を食べながら中国語でいろいろ話したが、夜の7時ごろから日本の「紅白歌合戦」のような番組が始まるとみんな夢中になってそれを見だした。歌だけでなく漫才や寸劇から少数民族の踊りまで多彩な構成になっているが、言葉がわからないボクにとって、その番組を見続けることがだんだん苦痛になってくる。

早く番組が終わることを願った。しかしいつまで経っても終わる気配がない。よっぽどもう眠いから帰ると言い出しそうになったが、その夜はその人のうちに泊まることになっていた。日頃からお世話になっている人だし、ひたすら我慢していた。

その番組は結局12時まで続いた。そしてやっと話題がこっちのほうに戻ってきた。「日本で旧正月を祝うところは少なくなっている。元旦が日本では一番重要な祝日で夜は除夜の鐘を聞きながら静かに年が明けていく、」拙い中国語で説明すると「ここでは、うるさく年を迎えるんだ」と言いながら、中庭に出て爆竹を鳴らし始めた。「パンパンパンッ」と乾いた音が耳をつんざく。

近所でも同じように爆竹の音が聞こえてきた。その人のうちは高台にあったので、外に出てみると、爆竹とともに各家庭の庭から花火が打ちあがっていた。日本の花火大会のときのような大規模なものではないが、寒空に広がる住宅街の各家庭から打ちあがる、緑や赤の光はとても幻想的だった。その後部屋に戻り、ボクは深夜2時に寝たが、爆竹は一晩中鳴っていたようだ。

次の日、つまり春節初日は朝早く起きて、いったん部屋に戻り、今度は学校の親しい先生のうちに行って、彼らとともに、オルドスの春節を体験した。とにかく慌ただしい。年長者の家から順番に親戚周り。1軒当たり30分ぐらいの割合で、底冷えのする中、自転車に乗って、小さな東勝の町をぐるぐる回る。

家に着くとまずモンゴル族の儀式である「嗅ぎ煙草入れの交換」をやる。各自が持っているガラスでできた「かぎ煙草入れ」を相手に渡す。渡された「かぎ煙草」の匂いを嗅ぐ。その香りをお互いに褒め称えながら相手に戻すという簡単な儀式。その意味を説明してもらったが、うまく聞き取れなかった。まあ、お互いに大切なものを相手に差し出すことによって、信頼関係を表すとともに、お互いの一年間の幸福を祈る、というものだと勝手に解釈した。

その後酒を酌み交わし近況を話しあうと、もう次の家へ。午前中だけで5軒も回った。ボクは前日あまり寝ていないのと、めずらしい日本人とあって、たくさん酒を勧められたせいで、午後はダウンしてしまい、同行できなかった。しかし、その先生は、午後は6軒回ったと言っていた。「日本の正月はもっと静かにゆっくり過ごす」と言ったら、彼曰く「オルドスでは普段暇だから春節くらいは忙しく過ごすのだ。」そう言い張っていたが、さすがに疲れきっていた。

こうして何日か、昼間はお互いに訪問し合って、夜は盛大に宴会をやって、おいしい食べ物や酒とともに、慌ただしいオルドスの春節は終わる。本当はほかにモンゴル族固有の、儀式や習慣がもっとたくさんあるようだがここ東勝の町では、それは見られない。モンゴルの民族衣装を着ている人すら見かけなかった。

実は春節初日、ボクは張り切って友人からモンゴル衣装を借りて、親戚周りに同行したが、ほかに誰一人として、モンゴル衣装を着ている人はなく、とても恥ずかしい思いをしたのであった。

ただ独特のオルドス民謡を歌いながらの楽しい宴会は、紛れもなくオルドスならではのもの。このオルドス民謡のメロディーは日本人にとってとても親しみやすく、2,3回聞けばすぐに口ずさむことができる。また、こちらの人は日本の民謡歌手のように、小節を効かせながら、ハリのある高音を出して歌う。みんな歌が上手で自然と酒が進む。もちろんボクも歌う羽目になるのだが、そこは唯一の日本人、何を歌ってもどんなに下手に歌っても、もてはやされる。日本の歌では「浜辺の歌」や「四季の歌」そしてもちろん「北国の春」などが好評だった。

こういった宴会の後は社交ダンス。こちらの人なら老若男女、誰でも優雅に踊ることができた。ボクも学生から年配の婦人まで様々な女性にリードしてもらいながら、何とか相手の足を踏まない程度に社交ダンスができるようになった。

ほかにこれといった娯楽はないが、客を手厚くもてなす態度や心から楽しんでいる様子を見ると、ここオルドスの人たちのある種の豊かさを感じた。
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