社長・坂本毅の『バンベン日記』


 

2019,04,29, Monday 04:56 PM


授業が始まって1週間後、待望の教科書が届いた。といっても届いたのはボクの分のみ。「生徒の分は今注文しているが、届くまで2,3ヶ月かかる。それまで蝋紙を使ってくれ。」と教務主任からあっさり言われた。

「蝋紙?」教務主任から渡されたのはガリ版用紙。「君はこれを使ったことがないだろうから、特別に使いやすいものを買ってきた。大切に使いなさい。」と蝋紙の束を置いていった。ガリ版を切るのはやぶさかではないが、ボクは小さい頃から字が下手で有名だった。そんなボクの字が書かれたプリントを使って日本語を勉強しなければならない生徒たちは不幸だ。とにかく早く教科書が生徒の手に渡ってほしいと願うしかない。

最初の半年間は、とにかく生徒たちの授業のためだけを考えて活動を進めていた。そして生徒たちも本当によくボクの授業についてきてくれた。授業中はとにかくよく声が出ていた。そして徐々にではあるが、個別に当てても、はっきりした声で答えるようになってきた。しかし初日に何気なく当ててしまったどうしようもなく恥しがり屋の「りんご姫」にはその後当てることができなかった。

ある日の授業。みんなで十分に発音の練習をした後、大丈夫かなと思いながらも、思い切って「りんご姫」に当てた。教室全体がシーンとなった。彼女は恐る恐る立ち上がった。、顔はもう真っ赤になっている。「落ち着いて、がんばるんだ」声にはならない声が教室全体を包みこんだ。彼女もみんなの注目を一身に浴びて何とか声を出そうと、体をよじりながら懸命に声を出そうとしている。「落ち着いて、ゆっくりでいいから」とボクが言おうとした時、「りんご姫」は崩れるように椅子に座り込み、泣き出してしまった。ボクはどうしていいかわからず、「そのうち、きっと言えるようになるから」と言うのが精一杯だった。そして気まずい雰囲気の中、授業を続けた。

授業が終わって、部屋で「気の毒なことをしてしまった」と反省していると、コンコンとドアをたたく音、開けてみると「りんご姫」が2人の友だちを連れて(あるいは友だちに連れられて?)、ドアの前に立っていた。「りんご姫」の手にはボクがガリ版を切って配った五十音図のプリントが握りしめられていた。それから部屋で一緒に「五十音図」を見ながら、「あいうえお」を何回も何回も繰り返し練習した。あいさつ用語も少し教えた。ついでに日本のことについても中国語で話した。そろそろ夕食の時間。その子は帰り際、恥しそうに日本語でこう言った。「センセイ、こんにちは。」思わずズッコケそうになったが、なんだかうれしかった。

何日か経った授業で、彼女を当ててみたら蚊の鳴くような声だがちゃんと言えるようになっていた。すごい。「りんご姫」はその後も日本語の成績はあまりパッとしなかったが、とにかく平仮名はみんなの前で読めるようになっていた。それだけでも立派なものだ。

1クラス50人の大所帯、しかも1クラス週4コマしかないということもあって、中国語の説明も板書でどんどん入れたし、会話の発展的な練習はほとんどできなかった。日本語教育の面からいうと問題があるかもしれない。しかしみんな真剣に僕の授業についてきてくれた。そして校舎中に彼らの日本語が響き渡っていた。「打てば響く」僕の場合そんな授業を続けていった。

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2019,04,25, Thursday 04:35 PM


部屋に戻り、しばらく授業の余韻に浸っていた。なんだかバタバタしてしまい落ち着きのない授業だったが、思った以上に生徒たちが声を出してくれたので満足だった。

しかし、今日何気なく当てた子にはかわいそうなことをしてしまった。「しぐさはおしとやか。顔がすぐ真っ赤になるから『りんご姫』だな。」勝手にあだ名をつけてしまった。実際100人の生徒を区別するためにはあだ名をつけるのが一番手っ取り早い。

その後ゆっくり1つずつアンケート結果を見た。まず、生徒一人一人の名前にびっくり。普通中国人の名前は漢字2、3文字のはずだが、蒙古族の名前はやたら長い。例えば「吉拉嗄拉吉吉格」。これで「ジラガラジジガ」と読む。そのほかにも「ウドンガリラ」、「アラタンウラ」、「ウユンブラゲ」などまるで恐竜か或いはプランクトンの名前。

後でわかったことだがモンゴル族には苗字がなく名前しかない。同じ名前の生徒が同クラスにいるとどちらか一人の名前の上に一文字追加する。例えば「ナリス」という名前の生徒が二人いたら片方の名前の前に「バ」を付けて「バナリス」と呼んで区別する。ちなみにこの「バ」は父親の名前の一部を採ったものだ。

各自の名前はそれぞれ美しい意味を持つ。例えば「ジラガラジジガ」は「幸福の花」という意味で女性の名前である。「ウドンガリラ」の「ウドン」は星、「ガリラ」は「光」を意味していた。いい名前である。なのに後に「うどん」という単語が出てきた時は教室のみんなに笑われてしまった。「うどんの光」おいしそうだが、ちょっとかわいそう。

実は「ウドンガリラ」の「ガリラ」は本当は「ゴリラ」に聞こえてしまうのだが、「ウドンゴリラ」ではあまりにもかわいそうだったので、「ガリラ」ということにした。どうせなら「ウドン」も「オドン」とかにしてやればよかったとやや後悔した。

「アラタンウラ」は「金の山」、「ウユンブラゲ」は「知性の泉」という意味でどちらも男性の名前である。2クラス100人の名前を覚えるのに相当時間がかかったのは言うまでもない。

次に家族構成を見てまたびっくり。とにかく兄弟が多い。平均で4,5人、8人という生徒もいた。まだ一人っ子政策が行われていなかったのだろう。中には父・母・兄・姉・弟2人・馬3頭・牛20頭・羊200頭・・・、と書いてある生徒もいて思わず笑ってしまった。牧民にとっては家畜も大切な家族の一員ということかもしれない。

そして次は趣味の項目。なんとほとんどの生徒が「学習」と答えていた。確かに田舎で趣味といってもあまり選択の幅がないのかもしれない。もしかしたら初めてみる外国人教師を前に見栄を張ったのかもしれないが、日本の高校ではちょっと考えられない現象だ。あるいは日本のように誰もが当たり前のように高校に行くのと違って、ある程度学力があって、しかも経済的にも家族に相当な負担をかけなければ高校に入れない、という現実があるから、とにかく勉強するしかないという決意の表れかもしれない。

日本について知っていることの欄にはほとんど「経済大国」とか「技術大国」ということを書いていた。一人だけ「中国を侵略した国」と書いてあったのにはドキッとした。中国の学生にとってみれば、日本といえば真っ先に「侵略」という言葉を思い浮かべるのが本当かもしれないが、ほとんどの生徒はボクに遠慮してそう書かなかったのだろう。

日本語の学習動機については「日本に留学したいから」とか「日本の技術を学ぶため」とか書いた生徒も多く、うれしかったがこの頃本気でこんなことを考えていた生徒はいなかったと思う。

ずっと後になって聞いた話だが、生徒はこの学校に来るまで、まさか自分たちが日本語を勉強するとは思っていなかった。入学して、日本人の先生がいるからということで彼らの意思とは関係なく日本語を勉強することになったそうだ。

さらに外国語学習の経験もなく、ボクの説明も足りなかったためか、最初の授業の「あいうえお」は何のためにやっていたのかすらわからなかった生徒もいたようだ。ただわざわざ日本から来た青年が何か声を張り上げているからなんだか知らないが一緒に声を出さなきゃ、そんな感じだったのかもしれない。

結局、アンケートをとっても、これからどう教えていったらいいのか、見えてこなかった。しばらく手探り状態で進めていくしかないようだ。

とにかくなぜ教えるのかよくわからない日本人の教師と、なぜ学習するのかよくわからないモンゴル族の生徒たちとの交流が始まった。

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2019,04,22, Monday 05:17 PM



部屋ではひたすら授業のことを考えていた。高校で言わば第二外国語のような形で日本語を教えることになる。週に4時間だけでは2年教えてもとても話せるようにはならないだろう。では、何のために日本語を教えるのか?到達目標は?どんなやり方で???。

日本にいるときアルバイトで一年ほど日本語を教えていたが、1クラス10~20名、日本の大学に入るという明確な目的があったので教えやすかった。ここでは、いくら考えても授業のイメージが沸いてこない。

それに加え、蒙古族といえば騎馬民族でジンギスカンの末裔、豪快で荒々しいというイメージを持っていた。しかも相手はいたずら盛りの高校生。小柄で童顔のボクがはたして教師としてやっていけるのか。考えているうちにだんだん不安になってくる。「日本語教師、生徒にいじめられて帰国」といった新聞の見出しが何度も頭の中をよぎった。

こうして時間は過ぎていき、いよいよ最初の授業の日。前の晩はほとんど眠れなかった。

10時10分、授業開始のベルが鳴った。まず53組の授業。ボクの部屋と同じ階。何も考える暇はない。極限の緊張状態の中で教室へ入った。50人の生徒がいっせいに立ち上がる。そして突っ立ったままこっちを見ている。日本だとクラス委員が「起立・礼・着席」号令をかけるが、こっちの生徒は教師が指示するまではひたすら立っている。しばらく中国語でなんと言ったらいいか考えたが、出てこないので何とかジェスチャーで座らせた。

まずは自己紹介から。自分の名前を板書したうえで、中国語で「私の名前は・・・。日本から来ました。・・・」前の日一晩中考えて何回も練習した中国語での自己紹介だったが、100個の目玉の刺すような視線をいっせいに浴び、声がうわずって今にも裏返りそうな状態。みんなうなずきもせず、じっとこちらを見つめている。彼らは果たして僕のことをどう思っているのか、そもそもボクの中国語は通じているのだろうか。じわっと額から汗がにじみ出てきた。

そしてしゃべりながら、自分が今、デイバックを背負っていることに気づいた。緊張のあまりデイバックを背負ったまま教室に入ってしまったようだ。これが日本人の習慣だと思われたら大変だ。額から汗がこぼれ、しどろもどろ状態で用意していた内容の半分も言えないまま、早々に自己紹介を切り上げるしかなかった。

こういうときはさっさと相手に下駄を預けてしまえとばかりに用意しておいた紙を配ってアンケートを行った。これは生徒の名簿がなかったので、まず生徒の名前を確認し、ついでに生徒の家族構成や趣味、日本について知っていること、日本語の学習動機を明らかにしようという狙いがあった。黒板に中国語で質問事項を書き、配った用紙に答えを書いてもらった。

みんな真剣にアンケートに答えている様子を見て少し安心した。生徒たちの一人ひとりの顔をじっくり眺める余裕も出てきた。男女比は大体3対2といったところ。よく見てみると幼い顔立ちの生徒が多い。中学1年生かと思えるほどの生徒もちらほら。荒々しい高校生をイメージしていただけにこれまた少し安心した。

アンケートを回収してもまだ時間が残っていた。ここからはノープランだったが、たまたま模造紙にマジックで書いた五十音図を丸めて持っていたので、これで時間をつぶすしかない。

「五十音図」を黒板に貼ろうと思ったら磁石がぽろっと落ちた。黒板が木?でできているのか磁石が使えない。なぜか画びょうが教師用の机に置いてあったのでこれを使うしかない、と黒板の上の縁に刺そうと思ったが、高すぎてうまく貼れない。背伸びしてぎりぎり届くが画びょうがうまく刺さらない。

見るに見かねた生徒たちが貼るのを手伝ってくれた。オロオロするばかりの情けない姿を晒してしまってもう半分やけくそになっていた。

そして中国語はすっかり自信がなくなっていたので、何の説明もせず、「あ」のところをボールペンの先で指しながら、「あ」と言ってみた。すると50人がいっせいに「あー」と大きな声で言ってくれた。しばらく教室に余韻が残る。すばらしい。

もう一度「あ」というと今度はもっと大きな声で「あーっ」と吠えるような声が返ってきた。

ボクも調子に乗って、テンポよく「あ」「い」「う」「え」「お」の発音を繰り返した。生徒たちの声が校舎中に響いていた。日本語を教えるのはこんなに気持ちがいいものか、と感動しながら、しばらく繰り返した。

そろそろ個別に言わせてみようと一番前に座っていた女の子を当ててみた。

するとその生徒はさっと立ち上がり、ぱっと口を開けたが声が出ない。「あ」の口を開けたまま固まってしまった。快調にテンポよく進んでいた授業がそこでぴたっと止まった。その生徒は固まったまま顔だけみるみる真っ赤になっていった。

「最初は言えなくていいから」とあわててジェスチャーで座らせて、そこで終了のベル。45分の授業が終わった。

「素朴でまじめで、はにかみ屋」ボクの蒙古族の生徒に対する印象が180度変わった授業となった。

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2019,04,20, Saturday 07:05 PM


【原点回帰・オルドスの風】
~塩を売って緑を買う男の始まりの物語~

第4回:町の様子

その後、新学期が始まるまでの1週間はオルドス式宴会もなく、自転車で小さな東勝の町をぐるぐる回ったり、日本語の授業の教案作りなどをして過ごした。
東勝は自転車で15分走れば端から端へたどり着いてしまうほどの小さな町。カシミヤと石炭が有名だそうだ。北のはずれにモンゴル族中学があり、南のはずれにカシミヤ工場がある。

当時は信号機が1か所。しかも壊れていた。車が非常に少なく、車道には自転車とロバ車が幅を利かせていた。モンゴル族中学から自転車で10分行ったところにメインストリートがありデパートが2件、郵便局、銀行、レストラン、映画館などが立ち並ぶ。とりあえず生活用品などを買おうとデパートに入ってみた。

デパートといってもだいぶ小規模で中は薄暗い。モノは豊富だがよく見ると種類が少ない。まずはマグカップ売り場へ商品はすべてショウケースの中に入っているのでいちいち服務員に言って出してもらわなければならない。

「色はいいが形が・・・」いろいろ迷って、何回も取り替えてもらっていると服務員も不機嫌になる。「何でもいいから早くしなさいよ。買うの?買わないの?」ついにオバサン服務員を怒らせてしまった。どれもイマイチ。最後はとにかくコーヒーが飲めたらいいや、と開き直り「じゃ、これください。」と妥協の産物を手に取り言った。服務員は紙に商品名と金額を記入し、それをボクに渡し、「あそこで払って。」めんどくさそうに言った。

「あそこって?」とても聞ける雰囲気ではない。しばらくウロウロしてやっとレジを見つけた。そこで金を払おうとすると、そこの服務員はボクの渡したお札を珍しそうに見るばかりで受け取らない。

当時中国では「兌換券」というものがあり、外国人はそれを使うようになっていたのだが、ここ東勝では通用しないようだ。そのときボクは「兌換券」しか持ち合わせがなく、仕方なく、一度銀行に行き「兌換券」を普通のお金「人民元」に換えてもらい、さっきのレジで金を払い、領収書にスタンプを押してもらい、マグカップ売り場へ。「レジに行くのに何時間かかってるのよ。」とオバサン服務員にブツブツ言われながら、やっとの思いでマグカップ1つを手に入れた。

その後、洗剤やタオルなどの生活用品と授業用の大きな模造紙、画用紙、マジック、磁石などを買い込んだ。まとめて買いたくても別の売り場にある場合はその都度、売り場(品定め)→レジ→売り場という過程を経ないと商品が手に入らない。品定めのとき気に入らなければ服務員にお願いしてまた、別のものを出してもらう。

自分の気に入ったものを買うためには服務員のめんどくさそうな表情に負けない強い意志を持ち、そして笑顔で何度も服務員にお願いしなければならない。それ以前に客が多いとき、また、暇すぎて服務員同士がおしゃべりに夢中になっているとき、売り場で読書をしたり弁当を食べたりしているとき、何だか知らないが機嫌が悪そうなときなどはこちらを振り向かせるのもひと苦労だ。壁には「為人民服務」という看板が空しく掲げられてある。

日本のスーパーやコンビニでは一言もしゃべらず買い物ができてしまうのだが、ここでは拙い中国語を必死に駆使して、また服務員に愛想笑いを浮かべて、やっと買い物ができる。「中国での生活は戦いだ。」と誰かが言っていた。これが一時的な滞在なら「これも人生経験」或いは「これも中国語の勉強」という気持ちで望めばいいが、「2年間も続く」と思うと気が重くなる。

「戦い」を終えて学校への帰り道、夕暮れ時でちょうどきれいな夕日が見えたので、そっちの方向に自転車を進めた。西側の町はずれの公園まで行って自転車を止めた。公園と言ってもただのだだっ広い原っぱという感じ。結構人がいる。そして侵食溝が痛々しい丘の向こうに夕日が沈むのがよく見えた。散歩をしている人、バドミントン、卓球に興じている人、辺りを走り回る子供たちなどがシルエットとなって美しい風景を醸し出していた。

一瞬ここが平和で豊かな町に思えた。日本から遠く離れたこんな僻地にもちゃんと人々の生活の営みがある。そう思うと心が和んだ。これからボクもこの営みの中に入っていくんだな・・・。

俄然やる気が出てきた。

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2019,04,19, Friday 04:27 PM




【原点回帰・オルドスの風】
~塩を売って緑を買う男の始まりの物語~

第3回:学校の様子

翌朝、頭が割れそうに痛い。

オルドスに来る前に北京で1ヶ月間、語学を中心とした訓練があった。

しかし、ボクには語学以外に訓練しなければならないものがあった。それはバイチュウ。先輩のボランティアから「内モンゴルではバイチュウが飲めなければやっていけない。」そう脅されたボクはすぐにスーパーに行き、バイチュウ売り場へ直行した。どうせ味はわからない。安いのでいいや、と一番安いバイチュウを買って帰った。

その日の晩、寝る前にバイチュウのキャップを開けた。そのキャップにバイチュウを注ぎ、一口、グイッとやってみた。化粧品と洗剤を混ぜたような味、強烈な匂い。みるみる冷や汗が出てきて、そのままフラフラとベッドに倒れた。

次の日はかなりの高熱が出た。その上腹痛。その日の語学の授業は休まざるを得なかった。

「酒を飲んで学校を休む」それまでまじめに取り組んできたボクにとって、拭い去れない汚点となった。

実際安物のバイチュウほど怖いものはないらしい。いろんなものが混ざっていているそうだ。その経験がトラウマとなってバイチュウは全く飲めなくなっていた。そのボクが昨日は何杯バイチュウを飲んだことか。

その日は二日酔いの状態で学校を案内された。まず4階建ての校舎を見学。まだ夏休み中なので生徒はいない。2階の西側の端に「日本語教師弁公室」と書かれた部屋があった。中は6畳くらいで、机と本棚とベッドが置いてあった。

ベッドには違和感があったが校長の執務室にもあった。中国では昼休みが長いからときどき執務室のベッドで横になるらしい。ボクは校長並みの待遇に満足した。

そしてグランド、生徒の寮、講堂、食堂等を回った。ここの生徒のほとんどは何百キロも離れたところの牧民の子供たちで学期中はずっと寮で生活する。広いグラウンドを挟んだ更に西側に教職員用の住宅があった。

「ところでボクの住むところは?」と切り出すと校長が「さっき案内したじゃないか」と言った。「えっ???」しばらく考えて悪い予感。そう、さっき見た校舎のボクの弁公室がそのまま住むところになるらしい。でもさっきの部屋はトイレも風呂も水道すらない。「心配するな。トイレは校舎から100メートル歩けばある。風呂は自転車で10分のところにある公衆浴場に行けばいい。君のためにちゃんと自転車を買っておいた。」と校長はとても慰めにはならない説明を続けた。

「でも校舎に住むんですか」と控えめに訴えると「君が突然来たんだから仕方ないじゃないか。でも心配するな。
2、3ヶ月後には君のために家を建ててやるから。」

なにもボクは突然来たわけではない。ちゃんと公的な国際ボランティアとして両国政府の協議のもと派遣されているはずである。

文句は言いたいが、今後2年間お世話になるところ、険悪な関係にしたくない。とりあえず、しばらくの間校舎に住むしか選択肢はなさそうだ。

その後、会議室でボクの仕事のことについて、話し合った。内モンゴル自治区には10数パーセントのモンゴル族がいて、モンゴル語で教育が受けられるモンゴル族中学が各地に存在する。そしてこの学校もそのひとつ。「中学」とあるが、日本の中学と高校が一緒になったような学校だ。

そのなかでボクは高級中学(日本の高校にあたる)の1年生4クラスのうち2クラスを4コマずつ計8コマ教えることになった。1クラスは50人、みんな日本語学習暦はない。どうやって日本語を教えたらいいか、なかなか見えてこない。

校長に日本語の学習目的を聞いても、よくわからない。北京から同行してくれた李さんにもう一度確認してもらった。「モンゴル族中学ではモンゴル語が母語の役割、漢語が外国語の役割を果たす。英語や日本語など本来の外国語は大学入試には関係ないが、外国語教育を取り入れることで生徒の向上心を高めることができる。外国語は英語でも日本語でもロシア語でもいいが、特に日本語はモンゴル族の生徒にとって文法などが似ているので学びやすい。今後は日本語教育を重視していきたい。」ということのようだ。

いわば、日本の高校で第2外国語として韓国語を学習するようなものか、と勝手に解釈した。

もう一つ心配だったのが、生徒は中国語を理解できるかということ。これについては「モンゴル族の生徒も小さい頃から中国語の学習をやっているので、基本的には問題がない。ただ、漢字の書き間違いが多く、中国語の作文などは漢族の生徒と比べるとだいぶ劣る。」ということだった。

ボクは訓練中、中国語しか勉強していなかったので、少し安心した。といってもボクはその時中国語で簡単なあいさつくらいしかできなかった。生徒よりボクの中国語を心配するべきだった。

学校側との話し合いも終わり、同行していただいた李さんがジープに乗って、去っていった。人と別れる時これほど心細くなったことはない。置き去りにされた感じ。しかし、ここからが本当の意味でのボランティア活動のスタートと言える。「知らない街での生活」が始まった。

夜は再び宴会があった。だいたい同じメンバー。内モンゴルは中国でも酒で有名。名酒で有名なのではなく酒豪で有名なのだ。その中でもオルドスといえば他の地方の人が震え上がるというほど豪快に酒を飲むという。

またもや失望と泥酔の中、2日目の幕が閉じた。
*写真は文革時代に作られたという講堂



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