社長・坂本毅の『バンベン日記』


 

2019,06,28, Friday 05:38 PM


時は流れ2001年2月、ボクは再び中国で働くことになった。今度は北京。今度はボランティアではなく、ボランティアをサポートする調整員という立場で仕事をしている。そう、いつかボクの活動を見に来てくれた人がいるが、それと同じように中国各地に散っている80人のボランティアのサポートが仕事。

職場の同僚の半分は日本人。後の半分は中国人だが日本語はぺらぺら。職場のすぐ近くの外国人用のマンションで何不自由なく暮らしている。オルドスにはボクは行って以来、ボランティアは派遣されていない。ボランティアの要請もない。だから調整員になっても行く機会がない。オルドスでの3年間は過去のものとなっていた。いい思い出になっていた。

2003年春、中国はSARS(重症急性呼吸器症候群)が猛威を振るい、中国全土に約80人のボランティアが派遣されていた。現状把握のために毎日電話。帰国する隊員の手続き、任地に残る隊員のケアなど調整員業務も多忙を極めた。

しかしやることをやってしまうとあとは自宅待機。北京が一番危ないとされていたのでうっかり外出もできない。数週間なにもやることがなかった。朝からぼっとテレビを見ながらビールという酔いどれの日々。

何かやらなければ・・・、とりあえず思いついたのが、自分のオルドス時代の日記を読み直すこと。オルドスにいた時はテレビもなく夜は暇だったので、割と克明に日記をつけていた。その日記の束を北京に持ち込んでいたが、それまでは忙しくて見ることもできなかった。何気なく読み始めていみるとこれが面白い。夢中になってあっという間に読破した。

そして思った。この貴重な体験をまとめて出版しよう。目標が定まればあとは実行あるのみ。面白いエピソードを厳選し、2週間で40話の体験記に仕上げた。題して「オルドスの風」。

そして2003年夏、SARSが収束してボランティア業務も生活も通常に戻ってきたころに不思議な出来事が続いた。

ある日、職場に電話がかかってきた。「覚えていますか。ノリブです。」「???」「オルドスのモンゴル族中学にいたノリブですよ、センセイ」すぐ顔が浮かんできた。大学の体育学科に入るといっていたあのノッポのノリブだった。「やあ、久しぶり。でもどうしてボクが北京にいることがわかったの?」「実は2日前、フフホトに行ったんです。そのときある日本人と会って、話していたら先生の話になったんです。今、北京にいると聞いてびっくりしました。」こちらもびっくりした。

彼が会った日本人とはボクがサポートしているボランティアの一人だった。その時フフホトで日本語を教えていたのだ。しばらくたどたどしい中国語での会話が続いた。彼は大学を卒業し、オルドスの蒙古族中学に戻り、今、体育の教師をやっている。日本語の勉強はずっと続けてくれていて、今度、日本語能力試験の2級を受けると言っていた。

公費留学試験をパスして日本に留学することが彼の夢だ。彼のほかにボクの教え子が3人もモンゴル族中学で教師をやっているそうだ。物理と歴史、残念ながら日本語ではない。今、モンゴル族中学では日本語はやっていないとのことだった。「今度、オルドスモンゴル族中学のホームページを作る予定です。是非、先生のプロフールを送ってください。」彼はこう言うとメールアドレスを伝え、電話を切った。今、フフホトでボランティアをやっている人を通じて、昔のボランティア時代の教え子と電話で再会を果たすなんて。実に不思議だ。

別の日、また電話があった。その日は日曜日でたまたま休日出勤していた中国語ができない日本人スタッフが電話に出たが、何を話しているのか聞き取れなかった。とにかく「サカモトタケシ、サカモトタケシ」と何度も叫んでいた、ということだった。ボクの教え子であることはすぐわかった。「でも、今度は誰だ?」

数日後、もう一度電話があった。今度はボクがいたので回してくれた。「先生、こんにちは。スレンです。」オルドスで文通相手にとっておきの写真を送ってふられた53組のリーダーであった。「僕は今赤峰で広告の仕事をしています。」赤峰とは内蒙古中部にある街である。「僕はもう結婚しました。先生は?」「・・・」「さびしいですねえ。早く見つけてくださいね。」面目丸つぶれである。

しばらく拙い中国語で会話が続いた。「でも、なぜボクが北京にいることがわかったの?」「実は高校のとき先生が紹介してくれた文通相手が教えてくれたんです。」実は彼にはもう一人文通相手がいた。その文通相手は今、福岡の高校で教鞭をとられている。最近はご無沙汰していて、年賀状だけのやり取りになっていた。しかし、スレンとその先生はもう10年近くも文通していることになる。そして、その先生を通して、懐かしい教え子と電話で再会できるなんて。本当に不思議だ。

しばらくして、フフホトに出張に行ったときのことである。2日間の日程を終えて、空港で北京行きの飛行機を待っていた。飛行機は遅れていた。天候不良のため、まだフフホトにその飛行機は到着していない。待合室で本を読んでずっと待っていた。するとアナウンスが流れた。「やっと来たか」と思いきや、「北京行きの飛行機は約2時間後にフフホトに到着する予定です。」そのときすでに夜の9時。11時に飛行機がついて、客を降ろして、清掃して、搭乗、離陸は12時くらい?家に帰るのは午前2時すぎか??。

ため息をつきながらあたりを見渡すと、みやげ物コーナーがまだ開いていた。暇だから見に行った。ショウケースの下のほうにモンゴルの銀製品があった。懐かしくてしばらく見ていたら、ショウケースの反対側から「センセイ。」と日本語。「私のこと覚えてますか?」顔を上げると、かわいらしい従業員がボクのほうを見ている。

「あっ、思い出した。ウドンガリラだ。」よく覚えている。ちょっとおとなしかったが、とにかく日本語を一生懸命勉強してくれていた女子生徒。テストの点数もいつもトップクラスだった。高校時代はまん丸顔だったが、少し顔立ちが引き締まった感じになっていたので、俄かには思い出せなかった。

「先生、あちらでお茶でも飲みませんか。」と仕事をほかの人に頼んで、コーヒーショップに連れて行ってくれた。それから搭乗するまでの2時間余り、本当にお互いよくしゃべった。授業のときのこと、早大生と交流したこと、砂漠で木を植えたこと、昔の思い出が溢れんばかりに次から次へと湧いてきた。しゃべりたいことがたくさんあった。もう一生懸命しゃべった。

しゃべりながら考えた。オルドスでの3年間、彼女とこうやって面と向かってしゃべったことがあっただろうか。授業では僕の質問に懸命に答えてくれた。日本人との交流のときはよく笑っていた。しかし、彼女と授業以外の時間にこうやって話をしたことはない。雑談をしたことすらない。3年間という長い時間で一度もないのだ。それが、今、こうやってお互いオルドス時代の話に花を咲かせている。お互いの思い出を共有している。本当に不思議でならなかった。

「今はこの空港で働いています。今でも、日本語を少し使っているんですよ。夏になったら、日本人がたくさん来るから。センセイ、日本語を教えてくれて本当にありがとうございました。」「ボクがもっと上手に教えていたら、通訳になっていたかもしれないのに。」いや、本当に申し訳ない。別れ際、彼女が言った。「来年になったら結婚するから、オルドスに帰るんです。先生、また、オルドスに遊びに来てください。」先生は?と聞かれなくてほっとした。

深夜、2時すぎにやっと自宅に戻った。しばらくビールを飲みながら、物思いに耽っていた。「それにしても不思議だなあ。」ふと、あることを思い出して、押入れをごそごそ捜索した。ある物を探していた。小一時間探して、やって見つけ出した。

ボクの宝物、オルドス最後の夜に生徒からもらった青いプレート。「お互いに思い会うように」「そうか、お互いに思って、また会うんだ」「よーし、今度、思い切ってオルドスに行ってみよう!」
この物語、まだまだ続きそうだ。(完)

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