社長・坂本毅の『バンベン日記』


 

2019,06,27, Thursday 05:41 PM


1994年3月に、また、早大生がやってきた。このように中身のある交流をきっかけに、文通の輪がまた、広がった。生徒の中にはこういう機会を確実にものにして、2人、3人と文通相手を増やしていった強者もいた。

3年の後期、生徒たちは4ヵ月後に受験を控えている。その頃から、自分の将来について熱っぽく語りにくる生徒が多くなってきた。中には日本関係に進みたいという生徒も出てきた。

「僕は、今は理系だけど、日本語に興味があるから、1年浪人して、日本語学科を目指す。」という生徒。「今、オルドスでは砂漠化が進んでいて、実家の放牧もこのままでは衰退してしまう。日本に行って砂漠緑化の勉強をし、故郷の発展に役立ちたい。」あるいは「砂漠にあるいろいろな薬草や元素を研究するために、日本に行きたい。」という生徒など。そういった生徒は確かに実力があり、将来が楽しみだった。しかし、考えてみれば彼らにより困難でより不確実な選択をさせてしまったのかもしれない。そういう時は甘い話など一切せず、ただ「がんばれ」というだけだった。

ある生徒に「最初はなぜ、センセイがわざわざ中国でも僻地のオルドスに来て、日本語を教えるのかわからなかった。砂漠での交流のとき、なぜわざわざ日本から高いお金を出して、砂漠に来てひたすら木を植えるのか、わからなかった。でも今は理解できます。センセイの将来が楽しみですね。」そう言われてはっとした。

生徒の将来も大事だが、ボクの将来はどうなるんだろう。漠然とは考えていた。日本に帰国しても、できれば中国関係の仕事に就きたいと思っていた。できれば内モンゴル、そしてできればオルドスと関係のある仕事に就きたい。でも、どうすればそれができるのか、見当もつかなかった。

こうして時は流れ、生徒たちともお別れの時が近づいてきた。日本語の授業は5月中旬に終了し、生徒たちは受験に向けてラストスパート。ボクも連日連夜の送別会などで、ずっと二日酔い気味。生徒たちと会う時間も少なくなってしまった。

1か月以上、毎日昼夜問わず白酒の宴会。この時期僕の精神状態はとても不安定だった。ある夜、僕は学校以外の友人の家で遅くまで飲んで、フラフラになりながら部屋にたどり着いた。なぜか部屋の屋根の上に登ってオオカミのように吠え続けていた。その後大きな声で日本の歌を歌っていたという。翌日隣のくまさんに聞いた話。まさか僕がそんなことするはずない。最初は冗談だと思っていたが、複数の目撃証言があり、顔から火が出るほど恥ずかしかった。

またある夜、同学年の先生方と宴会。教員の飲み会は学校の娯楽室で行われる。飲まされすぎて、フラフラになりながら外へ出る。トイレを済ませて娯楽室に戻ろうとする。ふと石炭置き場の黒光りする大きな石炭に目が止まる。きれいだなあ。石炭を両手でなでまくる。両手が真っ黒になる。そのまま娯楽室へ。同僚の先生はみんなびっくり。「まあまあ、石炭まみれになっちゃって。」女性の先生がぬれタオルを持って僕の手を拭こうとする。僕はその手を振り払って、彼女の顔に石炭を塗り付けた。みんな唖然。「何をしてるんだ!」お腹の大きな学年主任の先生に怒られる。僕はまるで幼児のように「ワ~ン」と泣き出し、主任のお腹に顔をこすりつけて泣き続けた。

翌日起きたとき、最初は何事もなかったようにコーヒーを飲んでいたが、なぜか手が黒ずんでいる。だんだん思い出してくる。あの修羅場を・・・。女性の先生は僕の日本語の授業を受けていた。ひどいことをしてしまった。反省。そして意を決してその先生の家に謝りに行った。「先生、私は大丈夫ですよ。先生こそ大丈夫?飲みすぎてホームシックになったんじゃないですか。」他の同僚の先生方も「飲んであれだけ暴れて泣けるのは素晴らしい。またひとつオルドス人に近づいたな。」と冗談を言いながら許してくれた。オルドス人のおおらかさを感じた。だから日本ではいつも無表情の僕がオルドスでは自分をさらけ出せたのかもしれない。

日本語の授業が終わってからは、たまに部屋を訪れてくれる生徒たちのおかげで辛うじて僕はこの学校の先生なんだと実感できた。それがないとただの飲んだくれ外国人だ。

ふと気がついてみると、初めて会ったときには幼い顔立ちだった生徒が、今は髭を蓄えていたり、同じ視線で話していたのに、今では見上げなくてはならなくなったり、女子生徒もずいぶん女性らしくなっていた。いつの間にか立派なモンゴル族の男、女になっていた。改めて彼らの心・技・体の成長の過程の中に自分の3年間の活動があったと思い知らされた。

自分がもっと心が広くて行動力があって冗談が言えたらもっと生徒たちや先生方と深い関係が築けた。もっといろいろできたはず。いろいろやりたいことも中途半端だった。いろいろ思い出はできたが、自分は相変わらず心が狭く、気が弱いとても成長したとは言えない。自分を置き去りにして成長していく生徒たちの姿にただただ驚くばかりである。

オルドス最後の夜。アルコール付けになった体を懸命に動かし、部屋を片付けていた。最後の数日は輪をかけて飲んだので、ほどんど思考能力を失っていた。さびしいとか悲しいとかいう感情もない。ただ「もうすぐ終わるんだなあ」という思いしかなかった。

突然生徒たちが部屋の中になだれ込んできた。最後の夜。自習を終えた生徒たちだ。「センセイ・・・。」といった後、生徒の一人がボクにプレゼントをくれた。A3大の手作りのプレート。青地に白くモンゴル語と日本語で文字が書かれていた。日本語のほうは「お互いに思い会うように。51、53班」と書いてあった。「思い会う」の部分を見て思わず苦笑してしまった。

いろいろ話したかったが、何を言っていいのかわからなかった。「センセイ、また遊びに来てください。」「センセイ、受験が終わったら、手紙を書きます。」「センセイ、早くきれいな奥さんを見つけてください」・・・。生徒のほうはいろいろ話してくれたが、こちらがうまく返すことができない。「受験、がんばれよ。」というのが精一杯だった。別れのシーンはどうも苦手だ。「さあ、そろそろ寝ないと、先生に怒られるよ」なんだか、照れくさくなり追い払うように生徒たちを帰してしまった。もっとなにか言ってあげたかったのに。

次の日の朝、ぎりぎりまで片付けに追われた。校庭を前で先生方と記念撮影。記念にもらったモンゴル衣装。オルドスの空のように真っ青でとてもきれいだが、サイズが大きすぎた。生徒は授業中だったが、みんな降りてきてくれた。最後にもう一度記念撮影。何人かの生徒と握手をして、「さようなら」と別れを告げた。学校が用意してくれたジープに乗り込むとものすごい勢いで走り出した。あっという間にモンゴル族中学が見えなくなった。

帰国後、多くの生徒から手紙が来た。ほとんどの場合、「センセイ、こんにちは」と日本語で始まる。しかしその後はひたすら中国語、中にはモンゴル文字で書き綴る生徒もいた。当然こちらはチンプンカンプン。そして最後は日本語で「センセイ、さようなら」。それでも、とてもうれしかった。すぐに返事を書いた。

しかし、時が過ぎていく中で、元生徒との文通は徐々に途絶えていった。ただでさえボクは根っからの筆不精。その上中国語を交えて返事を書くのは大変な労力だ。就職してからはオルドスのことを思い出すことさえなくなっていた。

このままいい思い出としてこの物語は終わってしまうのだろうか・・・。

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