社長・坂本毅の『バンベン日記』


 

2019,06,25, Tuesday 04:54 PM


93年10月、東勝から150キロほど離れたクブチ砂漠のオンカクバイというところで日本の植林ボランティアの人々と共同で木を植えるという活動を行った。

これは前から是非やりたかったイベントだった。ボランティアの方々に費用を負担していただき、学校側に何度も働きかけた結果、季節的にも、受験を控えている生徒たちにとってもタイムリミットであるこの時期にやっと実現した。ただ物理的な理由から、先生10名、生徒10名しか行けなかったのは残念だった。このボクの活動史上最大のイベントに校長は全面的に協力してくれて、教育局や公安への許認可関係などを一手に引き受けてくれた。

10月12日午前10時、校長を団長とした「オルドスモンゴル族中学植林隊」の一行20名はマイクロバスに乗り込み、一路、クブチ砂漠のど真ん中にあるオンカクバイを目指した。バスは北へ向けて所々アスファルトが剥げている国道を快調に走った。いくつもの丘陵を越えた。左手に巨大な建物が姿を現した。建設中だができたらアジア最大の火力発電所になるらしい。ここオルドスは地下に良質な石炭が無尽蔵に眠っている。その石炭を使って電気を作り、それを電力不足の北京に送るのだという。地元ではしょっちゅう停電する。しかし自分の所の電力事情も省みず、ひたすら首都北京へ電力を送らなければならないとは。悲しいサガである。

途中の食堂で昼食をとった。校長以外は先生も生徒もみんな日本語を学んでいる。校長一人を置き去りにして、日本の話に花が咲く。

再び、バスに乗る。今度は西に進路を変える。アスファルトの道はそこまで。いきなりデコボコの土の道に変わった。土ぼこりで窓も開けられない。お尻が持ち上がるほどの悪路の中、車酔いしそうだが、みんなでオルドス民謡を歌いながら乗り切った。時々羊の群れに行く手を遮られながら、ひたすら西へ西へと進む。約10キロごとに集落がある。最初はレンガ造りの家が多かったが、西に行くにつれて土作りの家が多くなっていく。風景も野菜畑からとうもろこしや高粱畑へそして、いつしか不毛の地に姿を変えた。ある丘を越えたところから、辺りは一面の砂漠になった。いよいよクブチ砂漠。砂が迫って車1台がやっと通れる幅の土道。歌い疲れた先生や生徒たちはぼんやり砂漠の風景を見つめていた。

砂漠の広がる中、何時間走っただろうか。夕日が西に沈む頃、ようやくオンカクバイの植林基地に着いた。そこで日本から来ていた植林隊約20名と合流した。植林隊の皆さんは大学生か定年を過ぎた壮年の方が大部分を占めていた。働き盛りの人は、問題意識がないのか、或いは10日間のツアーにも参加できないほど忙しいのか、日本社会の窮屈さを感じた。

自己紹介の後、NGOの役員の方からの簡単なブリーフィングを受けた。「『サバク』とは乾燥のため植物が生えても、それが増殖しない地域のことを指します。つまり雨が降れば一時的に草などが生えてきますが、日照りが続けばそれらは枯れてしまいます。何年間も生き続ける植物が極めて少ない地域、それが『サバク』です。日本語では『砂漠』と書きますが、『サバク』は砂ばかりでなく、土であったり、礫であったり、岩や塩でできたものもあります。中国では水が少ないという意味の『沙』という文字を使い『沙漠』と表します。」熱心な話が続く。オルドスで砂漠化がどれだけ進んでいるのか、どうすれば草原を取り戻すことができるのか、みんな真剣に聞いていた。

その後、お待ちかねの親睦会を兼ねた夕食。食堂には4つの丸テーブルがあった。1つのテーブルに日中のメンバーがそれぞれ5人ずつ加わった。当初、ボクは校長と同じテーブルに座っていた。校長を除いては日本人と日本語学習者。どうしても日本語中心になってしまう。昼もそうだったので少々気の毒になって、校長に振ると、校長曰く「私は初めて言葉の全くわからない世界を経験した。まるで外国にいるみたいだ。でも、おかげで君がどんなにさびしい思いをしながら、生活しているか、身をもってわかったよ」と言った。しみじみとした、その言葉にはずっしりとした重みがあった。

やがて、ボクは若手の先生や生徒、日本の大学生がいるテーブルに呼ばれて、場所を移動した。話題もこっちのほうが合う。日本の歌を一緒に歌う。「坂本さん、モンゴルの生徒さんたちは、シブイ歌を知ってますね。『北国の春』に『星影のウルツ』に『与作』・・・。これは先生の趣味ですか?」日本の大学生に突っ込まれて、言葉を失ってしまった。「最近は若者の歌も教えてるんだけどなあ・・・。」話題を無理やり「あっち向いてホイ」にもって行った。これが大いに受けた。

こちらがゲームなどで盛り上がっている間、校長の座っていた「年配者のテーブル」のほうは険悪なムードになっていた。後から聞いた話だが、校長は言葉が通じない中、校長なりの流儀で友情を示そうした。銀碗にオルドスバイチュウを注いで、日本の年配の方々に飲ませ始めたのだ。だいたいは苦しみながらも、何とか飲み干したようだが、一人、どうしても飲めない人がいたらしく、執拗に飲ませようとする作法に堪らず、銀碗に入ったバイチュウを床に捨ててしまった。これはモンゴル族の作法に反する行為。しかしその人は酒が飲めない人に無理やり飲ませるやり方のどこが礼節だ、と主張。険悪なムードのまま、そのテーブルの人たちは各自の部屋に戻ったそうだ。ボクたちはそんなことが起こったとは露とも知らず、12時過ぎまで、歌い騒いでいた。

次の日、6時に起床。やや二日酔い気味だが、そんなことは言ってられない。7時にまたバスに乗り、5キロほど離れた所にある植林サイトに向かった。砂漠のど真ん中に確かに森ができている。これには感動した。そこを通り過ぎて、その日ボクらが木を植えるのはやはり砂漠。午前中のノルマは1000本。40人で植えるのは大変だが、ここをさっきのような森にしようという強烈な動機付けもあって、みんな素早く作業に取り掛かった。

まず穴を掘る。深さ80センチほどの穴を掘らなければならない。砂なのでスコップがザクッと深くまで刺さる。掘りやすいといえば掘りやすいが、掘った後からどんどん砂が穴に入り込んでしまう。そこでモンゴル族の生徒が手本を示す。スコップを垂直に下ろし四角い穴をいとも簡単に掘ってみせた。オルドスの人たちは小学校の時から年に何回か「義務労働」に駆り出されて砂漠で植林作業を行う。砂漠に穴を掘るのは朝飯前だ。

穴にはポプラの苗木を挿して、素早く砂を戻す。苗木が垂直になるのがポイントだが、なかなか難しい。うまくいったら足で周りを踏み固めて、仕上げにバケツ1杯の水をかける。水は100mほど離れた所にある井戸から汲んで運んで来なければならない。穴掘り・苗木挿し・水かけ、3人1組になって、2mほどの間隔をあけながら、木を植えていく。体力のある人ない人、それぞれ助け合いながら自分のできることをやっていく。見事なチームワークで作業が進み、午前中に予定を上回る1500本の苗木を植えることができた。

3時間ぶっ通しの肉体労働に、ヘトヘトでペコペコ。昼食はご飯に野菜炒めをかけただけの質素なもの。みんな貪るように食べた。10月とはいえ、真昼の砂漠、日差しはきつい。それぞれ、木陰を探して一休み。昼寝をする人、トランプに興じる人、砂に文字を書きながら、筆談をする人、そんな交流の姿をボクはしっかりカメラに収めていった。

2時間ほど休んで午後の作業。少々風が強くなって砂が舞う中、少しも怯むことなく作業を続けた。3時にはその日予定されていた2000本の木を植え終わった。みんな砂漠に刺さった細々としたポプラの苗木を見つめていた。風と闘い、砂と闘い、乾燥と闘い、寒さと闘わなければならない。この2000本の苗木のうち、何本が来年の春を迎えることができるだろうか。10年後に是非この地に立っていたい。そう強く思った。

時間があったので帰りは「沙漠ウォッチング」ということで5キロの道のりを歩いて帰ることになった。みんな思い思いグループを作って、ゆっくり寄り道をしながら基地に戻った。砂漠の砂紋をじっと見ているグループ、糞ころがしが野鼠の落とした糞を丸めているところを写真に収めているグループ、砂漠に生えている薬草の採取をするグループ。

この日、ボクの出番はほとんどなかった。交流のためのゲームなども考えてはいたが、一つの目標に向かって、作業をともにした仲間たちには何も必要なかった。少しだけ寂しさを感じたが、裸足になって砂をザクザクと踏みしめる感覚を楽しみながら、それぞれの交流の姿を見つめていた。

砂漠の砂を持って帰ろうと、空になったペットボトルに砂を詰める。手で砂を掬ってみると、下のほうはかすかに湿っている。そして砂漠のど真ん中にも所々、水溜りがある。そこが決して不毛の地でないことを物語っている。きっと再生できる。かのジンギスカンが惚れ込んだという、素晴らしい景色を想像しながら基地に戻った。

夜は食堂で夕食をとった後、巨大なモンゴルゲルで打ち上げ。まず、蒙古族中学側から感謝の意味を込めて、オルドス民謡を歌いながら、銀碗でバイチュウを勧めていく。決して無理強いはしない。それを受けた日本人もモンゴルの礼節に則って、右の薬指でお酒を弾きながら、天と地と人に感謝して飲めるだけ飲む。日本側からも答礼の意味を込めて、同じように酒を勧める。歌はもちろん日本の歌。幅広い世代の中、みんなで歌えるのはやはり童謡が多かった。先生たちが終わると生徒にも酒が振舞われる。一気に飲み干す生徒に歓声が上がる。酒に関する文化の違いを乗り越えたひと時だった。

それから、ボクの部屋に男子生徒と何人かの日本のボランティアが集まって遅くまで、語り合った。それぞれの砂漠に対する思いをぶつけ合う。日本人にとっては憧れを持つ砂漠。しかし生徒たちにとっては現実。生徒の一人が少しずつ移動する巨大な砂丘に家が飲み込まれた話をする。もう一人が何百頭もの家畜が餓死した話をする。「砂漠のど真ん中での植林もいいけど、今度、機会があったら是非ボクの故郷に来てください。砂漠のすぐそばで生活をしている人々の姿を見に来てください。」あるおとなしい生徒がそう訴えていた。

次の朝、基地のすぐそばで記念植樹を行った。プラスチックのプレートに名前と感想を書いて、それぞれが植えた木に掛ける。何を書いていいか考えがまとまらず結局「砂と水と木と草と動物と人」とだけ書いた。ボクたちはもう基地を離れる時間。日本のボランティアの方々は引き続き植林を続ける。お互いの住所を書き合ったり、写真を取り合ったり、抱き合ったり、泣きあったり、それぞれの別れを惜しんだ。ボクの史上最大のイベントが終わった。

帰りのバスの中、やり遂げたという達成感はなかった。ボクの心は別のところにあった。「第二の故郷、オルドスで自分は何ができるのだろうか。これから何をしなければならないのだろうか。」荒涼とした風景を見ながら、ずっと考え続けた。

*まだまだクラウドファンディング継続中。只今1,06,700円!ついに100万円突破!ぜひこちらもご覧ください!
黄砂を止めよ!砂漠を緑に!~「塩を売って緑を買う男」15年目の挑戦~
https://camp-fire.jp/projects/view/156785

| 日記 | 04:54 PM | comments (0) |
comments (0)





2019,06,24, Monday 03:47 PM


第37回:任期の延長

ボランティアの任期は2年だった。しかし、文通や日本の学生との交流も経験したせいか、生徒たちの日本語に対する意欲は高まるばかりだった。それに高校1年から、持ち上がりでずっと教えてきたのですっかり愛着が湧いてきた。ボクはどうせ日本に帰っても何もすることが決まってなかったし、なんとか彼らが卒業するまで見届けたいと思って、任期を1年延長することにした。

しかし、生徒たちは高校3年生。中国の受験戦争は日本よりも厳しく、この時期日本語を教えるということは、日本の高校3年生の生徒に教養科目として中国語を教えるようなもので、生徒たちの負担は相当大きい。だから彼らの意志を尊重して、今まで教えてきた2クラスのうち、続けて勉強したい生徒だけを集めて1クラスにして、週5時間の授業を行った。

大変なスケジュールの中、50人の生徒が日本語を続けると言ってきた。受験勉強がきつくなったらいつでもやめていいからということで始めたこのクラスだったが、やはり1人抜け2人抜け最後まで残ったのは30人ぐらいだった。

あるノッポの生徒は僕の部屋にやってきて「先生、ボクは日本語の勉強は好きだけど今は勉強をする余裕がありません。来年何とか内蒙古大学に入って将来は体育の先生になりたいんです。でも大学に入ったらまた日本語を勉強をしたいのでそのときは日本にいる先生と文通がしたいです。」こういいに来る生徒もいてうれしかった。

教室にだんだん空いた席が多くなっていくのを見るのはつらいもの。しかしそれに反比例して生徒たちの意気込みは上がっていった。空いた席を補うように大声で授業に参加している。このような状況でお互い教え学び合っていると、なんだか新たな信頼関係が芽生えてきたような気がした。

こうしてボクの活動は「広く浅く」から「狭く深く」へと移っていった。

*まだまだクラウドファンディング継続中。只今947,000円!ぜひこちらもご覧ください!
黄砂を止めよ!砂漠を緑に!~「塩を売って緑を買う男」15年目の挑戦~
https://camp-fire.jp/projects/view/156785


| 日記 | 03:47 PM | comments (0) |
comments (0)





2019,06,22, Saturday 04:20 PM


ジンギスカンは今でもモンゴル族の英雄。その陵はオルドスのほぼ中央のイジンホロというところにある。東勝から南に車で1時間。

そう、かのジンギスカンが西夏遠征時に鞭を落としたとされるところ。今は古代のモンゴル宮殿を模した3つのドームを有する巨大な建物が聳え立っている。

実際はここにジンギスカンが眠っているわけではないが、年に4回祭事が執り行なわれ、モンゴル民族の聖地となっている。ボクは何度もこの陵を訪れたが、特に早春の祭事を学校の先生たちと見に行ったときは印象深かった。

その日は朝から、日本語を勉強している先生とその夫、小学校2、3年くらいの子供と一緒に車をチャーターしてジンギスカン陵へ向かった。

車窓から周りを見渡すと東勝の周りのような地層がむき出しの浸食溝はあまり見られない。乾燥した大地に所々木が生い茂っている。アフリカのサバンナのような風景が続いた。

オルドスの冬はひたすら茶褐色の大地、単色の世界だったが、その時はちょうどポプラの葉が芽吹く頃で、緑がまぶしい。1時間で陵まで着いた。すでに大勢の人が詰め掛けていた。ボクらは普段着だったが、さすがに祭りの日、モンゴル衣装を身にまとった人が多かった。馬で駆けつけていた人もいた。

陵の外側ではラマ僧がお経を唱えている。その周りには熱心な信者が懸命に祈りを捧げている。モンゴル族は大体清朝の頃からラマ教を信じるようになったという。でもここはジンギスカンの陵、少し違和感があった。

陵の中に入ると、先祖代々ジンギスカン陵の「墓守」を続ける「ダルハット」と呼ばれる人たちによる儀式が行われていた。正面の真ん中のドームには巨大なジンギスカンの像が祭られてある。その前に祭壇があり、そこに酒や羊や様々な装飾品が供えられていた。

「ダルハット」たちがジンギスカンの業績を称え、人々の平和を祈る経典を唱える。儀式が一段落すると、祭壇に供えられていた酒が下ろされる。「大王」と慕っているジンギスカンの酒を酌み交わすことで、それぞれの血のつながりと固い絆を確かめ合う。

そして、再びお経が唱えれらる。ドームの奥のほうに行くと、今度はフビライを祭る祭壇があり、そこでも多くの人が跪きながら、何事か祈っていた。

宮殿の外に出た。至るところにモンゴル文字が書いてある。連れの先生が1つ1つ意味を教えてくれた。ボクにとってはさっぱり読めない代物。但し、上から下に豪快に一筆書きで書かれている文字を見るのは気持ちいい。この文字、実は13世紀、モンゴル軍がイスラム圏に進行したときにイスラム文字を持ち帰り、元々横文字なのを縦文字に改良して取り入れたのが始まりだという。なるほど横向きにしてみると何となく、イスラム文字っぽくなる。また、1つ勉強になった。

中庭の中央には大きな樽が置いてあった。人々はその中に持ってきた自家製の「馬乳酒」を流し込む。やがてその樽が馬乳酒でいっぱいになり、それが零れる方角に幸があるという。その年は南東方向。残念ながらモンゴル族高校のほうではない。

その他、神聖な馬に頭を舐めてもらったら、良縁に恵まれるという言い伝えもあり、果敢に挑戦する女性もいた。

昼食は陵の外で羊料理を食べた。羊を食べながら、先生の夫の話に耳を傾けた。その人は歴史が専門。得意げに今日の儀式の重要性を説いていた。やがて話はモンゴル族誕生の伝承へと変わっていく。

「天より降りてきた青き狼、そして白い雌鹿。大いなる湖を渡り、モンゴルの地にやって来た。そして子を授かった。モンゴル族は目に火あり、面に光ある青き狼の子孫である。」調子よく話は進む。「青き狼の軍団は恐れを知らなかった。モンゴル軍は陰山山脈を越え、黄河を渡り、オルドスの高原に進行してきた。そして西夏を滅ぼし、宋や金を攻め中原を落とし、更にヨーロッパへ至る一大帝国を築いたのである・・・。」

そう得意げに言った後、ため息を一つ。「だが、モンゴル帝国は歴史から消えた。」それを境に自慢話から自虐話に変わった。

「最近のモンゴル族には馬に乗れない者もいる。モンゴル語を話そうとしない若者が多い。男は酒ばかり飲み、まともに働こうとしない。・・・。」笑いながら肩をすくめた。そして最後に「でも、何とかしなきゃね。」と自分に言い聞かせるように呟いた。

いつまでも過去の栄光にすがってはいられないという強い意志を感じた。


*まだまだクラウドファンディング継続中。只今936,000円!ぜひこちらもご覧ください!
黄砂を止めよ!砂漠を緑に!~「塩を売って緑を買う男」15年目の挑戦~
https://camp-fire.jp/projects/view/156785

| 日記 | 04:20 PM | comments (0) |
comments (0)





2019,06,21, Friday 05:28 PM
中国で暮らす場合歴史のことはしっかり抑えておかなければいけない。ボランティアとして派遣される前に言われていたことで、特に近代史については一通り勉強しておいた。

ただ普段中国で生活していて戦争のことについていろいろ聞かれることはあまりなかった。過去の戦争について謝れと言われたこともないし、謝ったこともない。だが、3年間もいると色々な場面に出くわす。

ある日、仲のいい先生のうちに行ったとき、小学校6年生の娘さんとしばらく話をしていたが、その子が何気に「昔、日本人がたくさんの中国人を殺したこと知ってる?」と聞いてきた。すると間髪を置かずにパチンッと乾いた音。隣に座っていた先生が自分の娘の頬っぺためがけて思いっきりビンタしたのであった。その子は一瞬びっくりして動けなかったが見る見るうちに頬っぺたに手形が現れ、泣いて部屋を出て行ってしまった。

学校の食堂でいつも食事を作ってくれるおばさんや他の2,3人の先生と話していたとき、おばさんにやはり同じことを聞かれたことがある。非常に婉曲的に「昔の中日間で戦争があったんだよ」といった感じだったが、ボクはちょっとムッとして「そんなこと、知ってるよ」とぶっきら棒に言い放った。戦争のことを聞かれたのがいやだったのではなく、なんだか無知を諭されているような感じがしたから思わず、ムッとしてしまっただけだが、そのおばさんは慌てて「いや、でもあんたは偉いよ。中日友好の使者だよ」と言い直した。周りにいた若手の先生もしきりにボクを持ち上げてくれた。なんだか気恥ずかしいような申し訳ないような気がした。

また、ある夜、別の先生のうちに夕食に招かれ、一緒に食事をしていると一人の酔っ払いが部屋に入ってきた。ボクのほうを見るなり、何か叫びだした。なんだか聞き取れなかったし、酔っ払いを相手にしたくなかったのでしばらくほっておいたが、しつこくこっちに向かって何か言っている。そして、そこの先生と高校生の息子で必死にその酔っ払いを追い出そうとしていた。何回も同じことを叫んでいるのでそのうち何を言っているのかわかってきた。「日本人は何人中国人を殺したんだ。お前の父母たちは何人俺たちの父母を殺したんだ。」やがてその酔っ払いは追い出されたが、凍りつきそうな思いになった。

一番応えたのは子供たちとのやり取り。ボクの部屋によく来る子供たちがいた。みんな学校の先生の子供たちで小学校3,4年生くらいの女の子。とてもかわいくちょっとおませなユニット。「ちびっ子48」ということにしておく。

ボクの部屋には日本の文房具や剣玉などのおもちゃが置いてあった。最初はそれを目当てに来ていたようだが、徐々にボクの部屋はチビモニたちの「隠れ家」と化して、とにかく暇があれば来るようになっていた。ボクも時間があるときは入れてあげて一緒に遊んでいた。

「モンゴルの童謡」を教えてくれたり、ボクが持っていた日本語の絵教材を使って、授業ごっこをしたり、何かとさびしい一人暮らしに彩を添える「天使」のようにも思えた。しかし、1日に何度も来るし一度来たらなかなか帰らないので時々厄介に思うようになる。居留守を使ったりすることもあったが、一度入れてしまうとなかなか帰らない。

気まぐれな「天使」たちは一瞬にして「悪魔」に変わる。一度本当に困り果てたことがある。その時は校長の娘もいたので校長のうちに行って何とかしてくれとお願いして校長に僕の部屋まで来てもらい追い出してもらった。「悪がきはこうすればいいんだ。」と自分の娘めがけて蹴りを入れて追い出していた。「君もこれから言うことを聞かない子供は遠慮なく蹴っていいから」といわれたが、性格的にもそこまではできなかった。

この件のあと、しばらくちびっ子48は来なくなっていたが、ほとぼりが冷めた頃、徐々にまた来だした。前と違ってよく言うことを聞くし、ボクもが来なかったら来なかったでなんとなく物足りなかったので、よかったのだが、ある日のこと、ちびっ子48の6人が部屋に遊びに来た。

そしてまた「悪魔」に変身した。その日はカシミア工場の友人宅で食事をすることになっていた。「もう夕方だし、そろそろ帰ってくれないかなあ。」リーダー格の子に聞いた。「帰らない」あっさりと答える。「君は帰ってくれない?」別の聞き分けのよさそうな女の子に振った。ちょっと迷った後で「その子が帰らないなら私も帰らない」と意外としぶとい。「ボクは今から友人の家に行かなきゃいけないんだ」すると「悪魔」の本領を発揮とばかりに「勝手に行けば、この部屋はもうあたしたちのものよ!」

これには本当に頭にきた。「帰れ!」思わず軽く蹴りを入れてしまった。「ワアーっ」とみんな飛び出していった。何とか追い出すことに成功した。

しかしその後、外で会うたびにちびっ子48たちはボクを指差しながら「日本鬼子」と言うようになった。

しばらくしてちびっ子48はまた、「天使」に戻るのだが、この時は本当に応えた。

| 日記 | 05:28 PM | comments (0) |
comments (0)





2019,06,20, Thursday 05:02 PM


最初に文通を始めた9人の生徒に届く。日本からの手紙の影響は絶大で、その後も多くの生徒が文通を希望した。ボクもあらゆる機会と捉えて、文通の機会を作った。もちろん交流会の後、早大生との文通も始まった。

しかし順調に続いたものもあるが、途絶えたものもある。なぜ途絶えてしまったのか。いろいろ原因はあると思うが、モンゴル族の生徒にとっては日本語で手紙を1枚書くにも、大変な労力を費やす。それに文通とは回を重ねるごとに内容がより深く、細かくなっていくものだが、彼らのその時の日本語のレベルでは、まだそこまで表現できない。このことは、日本の文通相手にとっても、最初は物珍しさで始めた文通が、だんだん物足りなくさせている原因かもしれなかった。

ある日、日本の女子高生と文通をしていた53組の「リーダー」が私の部屋にやってきて、文通している女の子の写真がほしい、と言う。それだったらまず自分の写真を送ってから頼んでみたら、とアドバイスしたら「じゃ、写真を撮ってきます。」と張り切って出て行った。

しばらくして得意げに、できたばかりの写真を持ってきた。なんと写真館まで行って撮ってきていた。彼は53組の学級委員長も務めるほどの好少年だったが、写真の中身はというと・・・。日に焼けた浅黒い顔に白粉を塗りたくって、髪には金の粉がふりかかっている。それでいて鼻の下にはうっすらと髭をたくわえている。輪郭にボカシが入っていて、目は遠くを見つめている。

どう見ても気合の入れすぎ。気合を入れすぎてオネエの見本みたいな写真になっていた。「これは送らないほうがいい。」と思ったが、彼の自信あふれる顔と、この写真に費やした手間、暇、金を考えると、どうしても言い出せなかった。「リーダー」はすぐ手紙にその写真を添えて日本に送った。果たして返事はいつまでたっても来なかった。

普段は文通相手から返事が来なくても、こっちはいちいちタッチしなかったのだが、このケースはあまりにもかわいそうだったので、こっそり相手の女子校生に根回しの手紙を出した。「ここオルドスでは写真を撮ることがめったにない。いったん撮ると決めたらトコトンこだわる。彼の写真のそのこだわりの表れ。これも異文化理解の一環と思って、これからも文通を楽しんでほしい。」と力説し、やっと返事が「リーダー」のもとに届いた。ボクほうにも手紙が来た。やはりあの写真が怖くて返事が書けなかったそうだ。

だいたい異性の子と文通したがる生徒が多かったので、男なのに「~なのね」と言葉が女っぽくなってしまうことがあった。

このように文通作戦はなかなか思い通りにいかなかった。しかしたとえ短い間でも、日本の友だちと日本語で手紙のやり取りができたという経験は、彼らにとって貴重なものだろうし、実際彼らは日本から来た手紙を宝物のように大切にしていた。

*写真は本文とは関係ありませんが、学芸会の様子です。


*まだまだクラウドファンディング継続中。只今905,500円!ぜひこちらもご覧ください!
黄砂を止めよ!砂漠を緑に!~「塩を売って緑を買う男」15年目の挑戦~
https://camp-fire.jp/projects/view/156785

| 日記 | 05:02 PM | comments (0) |
comments (0)






ページ上部へ ↑

カレンダー
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30     
<<前月 2021年11月 次月>>
新しい投稿
コメント
カテゴリー
過去の投稿
その他