社長・坂本毅の『バンベン日記』


 

2019,07,08, Monday 04:34 PM


5年くらい前に勉強会に参加して以来、いつかは挑戦してみたかったクラウドファンディング。今年は活動15周年の節目の年。しかも現地で有機農業に本格的に取り組む転換期でもある。タイミングはバッチリ。

しかし20%近く取られる手数料、失敗したときのリスク(恥ずかしさややる気の低下)などがネックになってなかなか踏み出せなかった。

しかしある情報を経て一気にやる気になった。それはクラウドファンディング会社Campfireの手数料無料キャンペーン。5月中にプロジェクトを起こせば手数料無料とのこと。

手数料という一番のネックがなくなって俄然やる気が出た。プロジェクトの起案はさほど苦労はなかった。いつも出前講座で話しているものを手直しして使えばいいし、リターン(商品)もそろっている。

一番迷ったのはゴール(目標金額)の設定。本当は大きく目標100万!と高らかに謳いたかったが、どれだけの支援が得られるか見当もつかない。これまで多くプレゼンその他アピールの機会があったが、たいてい「いいことをやっていますね。」「頑張ってください!」で終わるパターンが多い。バンベンのストーリーがただ共感を呼ぶだけじゃなく、共感から行動(支援)を起こしたくなるものなのか・・・。とにかく成功することが大事。熟慮した結果、目標を30万円に設定した。

GW明けにCampfireにプロジェクト案を送ると早速ダメ出しが・・・。本文が長い、動画があったほうがいい、画像に文字を入れたほうがいい、カテゴリーが違う・・・。一つずつクリアしていった。特に本文はだいぶ削ったし、独りよがりにならないように修正したが、それでもかなり長くなってしまった。

Campfireの審査も通り、5月20日にプロジェクトスタート。ちょうどバンベンのフェイスブックページで連載中の「原点回帰・オルドスの風」~塩を売って緑を買う男の始まりの物語~にリンクを張ったり、ご無沙汰しているお友達にメッセージを送ったり、イベントでチラシをまいたり・・・。

毎日通常業務の合間に少しずつ地道な作業。そして毎日少しずつ支援者が金額が増えていく。うれしくなってまた作業を頑張る。ますます支援が増えていく・・・。好循環。

5月30日に目標の30万円をクリア。すぐにCampfireの担当者から「セカンドゴール」を設定したほうがいいと言われ、「支援者100人」という目標を設定。これも6月10日に達成。すぐにCampfireの担当者から「サードゴール」の設定を求められたが、後は流れに任せてみた。

その後、佐賀県のクラウドファンディングイベントにも乗っかり、順調に支援を伸ばした。気が付けばもうすぐ100万円というところまできていた。

6月24日23時。福岡でのイベントが終わり、高速バス車内でビール片手にCampfireのページをチェックしていた時に100万円突破の瞬間が訪れた。無言で小さくガッツポーズ!

今回、クラウドファンディングに挑戦してみて本当に良かった。予想を上回る金額、支援者を得ることができて非常にうれしかったし、自分の活動に自信を持つことができた。

それ以上にうれしかったことは、この機会がなければもう連絡することがなかったであろう、協力隊時代の友人や初期の植林ボランティアの参加者、音信不通になっていた友人と再びつながることができたこと。そしてこのクラウドファンディングでまた新しいつながりができた。こういったつながりは大事にしていきたい。

初めてオルドスの地を踏んで28年、砂漠緑化を始めて15年。志、行動、つながりがぐるぐる絡み合いながら物語が紡がれていく。なんだか100歳までいってしまうような気がする。この流れを楽しみながら今後も歩んでいきたい。

*いよいよ、あと3日。少しでも多くの方にこの「物語」に参加していただきたく、ご支援よろしくお願いします!
https://camp-fire.jp/projects/view/156785

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2019,06,28, Friday 05:38 PM


時は流れ2001年2月、ボクは再び中国で働くことになった。今度は北京。今度はボランティアではなく、ボランティアをサポートする調整員という立場で仕事をしている。そう、いつかボクの活動を見に来てくれた人がいるが、それと同じように中国各地に散っている80人のボランティアのサポートが仕事。

職場の同僚の半分は日本人。後の半分は中国人だが日本語はぺらぺら。職場のすぐ近くの外国人用のマンションで何不自由なく暮らしている。オルドスにはボクは行って以来、ボランティアは派遣されていない。ボランティアの要請もない。だから調整員になっても行く機会がない。オルドスでの3年間は過去のものとなっていた。いい思い出になっていた。

2003年春、中国はSARS(重症急性呼吸器症候群)が猛威を振るい、中国全土に約80人のボランティアが派遣されていた。現状把握のために毎日電話。帰国する隊員の手続き、任地に残る隊員のケアなど調整員業務も多忙を極めた。

しかしやることをやってしまうとあとは自宅待機。北京が一番危ないとされていたのでうっかり外出もできない。数週間なにもやることがなかった。朝からぼっとテレビを見ながらビールという酔いどれの日々。

何かやらなければ・・・、とりあえず思いついたのが、自分のオルドス時代の日記を読み直すこと。オルドスにいた時はテレビもなく夜は暇だったので、割と克明に日記をつけていた。その日記の束を北京に持ち込んでいたが、それまでは忙しくて見ることもできなかった。何気なく読み始めていみるとこれが面白い。夢中になってあっという間に読破した。

そして思った。この貴重な体験をまとめて出版しよう。目標が定まればあとは実行あるのみ。面白いエピソードを厳選し、2週間で40話の体験記に仕上げた。題して「オルドスの風」。

そして2003年夏、SARSが収束してボランティア業務も生活も通常に戻ってきたころに不思議な出来事が続いた。

ある日、職場に電話がかかってきた。「覚えていますか。ノリブです。」「???」「オルドスのモンゴル族中学にいたノリブですよ、センセイ」すぐ顔が浮かんできた。大学の体育学科に入るといっていたあのノッポのノリブだった。「やあ、久しぶり。でもどうしてボクが北京にいることがわかったの?」「実は2日前、フフホトに行ったんです。そのときある日本人と会って、話していたら先生の話になったんです。今、北京にいると聞いてびっくりしました。」こちらもびっくりした。

彼が会った日本人とはボクがサポートしているボランティアの一人だった。その時フフホトで日本語を教えていたのだ。しばらくたどたどしい中国語での会話が続いた。彼は大学を卒業し、オルドスの蒙古族中学に戻り、今、体育の教師をやっている。日本語の勉強はずっと続けてくれていて、今度、日本語能力試験の2級を受けると言っていた。

公費留学試験をパスして日本に留学することが彼の夢だ。彼のほかにボクの教え子が3人もモンゴル族中学で教師をやっているそうだ。物理と歴史、残念ながら日本語ではない。今、モンゴル族中学では日本語はやっていないとのことだった。「今度、オルドスモンゴル族中学のホームページを作る予定です。是非、先生のプロフールを送ってください。」彼はこう言うとメールアドレスを伝え、電話を切った。今、フフホトでボランティアをやっている人を通じて、昔のボランティア時代の教え子と電話で再会を果たすなんて。実に不思議だ。

別の日、また電話があった。その日は日曜日でたまたま休日出勤していた中国語ができない日本人スタッフが電話に出たが、何を話しているのか聞き取れなかった。とにかく「サカモトタケシ、サカモトタケシ」と何度も叫んでいた、ということだった。ボクの教え子であることはすぐわかった。「でも、今度は誰だ?」

数日後、もう一度電話があった。今度はボクがいたので回してくれた。「先生、こんにちは。スレンです。」オルドスで文通相手にとっておきの写真を送ってふられた53組のリーダーであった。「僕は今赤峰で広告の仕事をしています。」赤峰とは内蒙古中部にある街である。「僕はもう結婚しました。先生は?」「・・・」「さびしいですねえ。早く見つけてくださいね。」面目丸つぶれである。

しばらく拙い中国語で会話が続いた。「でも、なぜボクが北京にいることがわかったの?」「実は高校のとき先生が紹介してくれた文通相手が教えてくれたんです。」実は彼にはもう一人文通相手がいた。その文通相手は今、福岡の高校で教鞭をとられている。最近はご無沙汰していて、年賀状だけのやり取りになっていた。しかし、スレンとその先生はもう10年近くも文通していることになる。そして、その先生を通して、懐かしい教え子と電話で再会できるなんて。本当に不思議だ。

しばらくして、フフホトに出張に行ったときのことである。2日間の日程を終えて、空港で北京行きの飛行機を待っていた。飛行機は遅れていた。天候不良のため、まだフフホトにその飛行機は到着していない。待合室で本を読んでずっと待っていた。するとアナウンスが流れた。「やっと来たか」と思いきや、「北京行きの飛行機は約2時間後にフフホトに到着する予定です。」そのときすでに夜の9時。11時に飛行機がついて、客を降ろして、清掃して、搭乗、離陸は12時くらい?家に帰るのは午前2時すぎか??。

ため息をつきながらあたりを見渡すと、みやげ物コーナーがまだ開いていた。暇だから見に行った。ショウケースの下のほうにモンゴルの銀製品があった。懐かしくてしばらく見ていたら、ショウケースの反対側から「センセイ。」と日本語。「私のこと覚えてますか?」顔を上げると、かわいらしい従業員がボクのほうを見ている。

「あっ、思い出した。ウドンガリラだ。」よく覚えている。ちょっとおとなしかったが、とにかく日本語を一生懸命勉強してくれていた女子生徒。テストの点数もいつもトップクラスだった。高校時代はまん丸顔だったが、少し顔立ちが引き締まった感じになっていたので、俄かには思い出せなかった。

「先生、あちらでお茶でも飲みませんか。」と仕事をほかの人に頼んで、コーヒーショップに連れて行ってくれた。それから搭乗するまでの2時間余り、本当にお互いよくしゃべった。授業のときのこと、早大生と交流したこと、砂漠で木を植えたこと、昔の思い出が溢れんばかりに次から次へと湧いてきた。しゃべりたいことがたくさんあった。もう一生懸命しゃべった。

しゃべりながら考えた。オルドスでの3年間、彼女とこうやって面と向かってしゃべったことがあっただろうか。授業では僕の質問に懸命に答えてくれた。日本人との交流のときはよく笑っていた。しかし、彼女と授業以外の時間にこうやって話をしたことはない。雑談をしたことすらない。3年間という長い時間で一度もないのだ。それが、今、こうやってお互いオルドス時代の話に花を咲かせている。お互いの思い出を共有している。本当に不思議でならなかった。

「今はこの空港で働いています。今でも、日本語を少し使っているんですよ。夏になったら、日本人がたくさん来るから。センセイ、日本語を教えてくれて本当にありがとうございました。」「ボクがもっと上手に教えていたら、通訳になっていたかもしれないのに。」いや、本当に申し訳ない。別れ際、彼女が言った。「来年になったら結婚するから、オルドスに帰るんです。先生、また、オルドスに遊びに来てください。」先生は?と聞かれなくてほっとした。

深夜、2時すぎにやっと自宅に戻った。しばらくビールを飲みながら、物思いに耽っていた。「それにしても不思議だなあ。」ふと、あることを思い出して、押入れをごそごそ捜索した。ある物を探していた。小一時間探して、やって見つけ出した。

ボクの宝物、オルドス最後の夜に生徒からもらった青いプレート。「お互いに思い会うように」「そうか、お互いに思って、また会うんだ」「よーし、今度、思い切ってオルドスに行ってみよう!」
この物語、まだまだ続きそうだ。(完)

*まだまだクラウドファンディング継続中。ぜひこちらもご覧ください!
黄砂を止めよ!砂漠を緑に!~「塩を売って緑を買う男」15年目の挑戦~
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2019,06,27, Thursday 05:41 PM


1994年3月に、また、早大生がやってきた。このように中身のある交流をきっかけに、文通の輪がまた、広がった。生徒の中にはこういう機会を確実にものにして、2人、3人と文通相手を増やしていった強者もいた。

3年の後期、生徒たちは4ヵ月後に受験を控えている。その頃から、自分の将来について熱っぽく語りにくる生徒が多くなってきた。中には日本関係に進みたいという生徒も出てきた。

「僕は、今は理系だけど、日本語に興味があるから、1年浪人して、日本語学科を目指す。」という生徒。「今、オルドスでは砂漠化が進んでいて、実家の放牧もこのままでは衰退してしまう。日本に行って砂漠緑化の勉強をし、故郷の発展に役立ちたい。」あるいは「砂漠にあるいろいろな薬草や元素を研究するために、日本に行きたい。」という生徒など。そういった生徒は確かに実力があり、将来が楽しみだった。しかし、考えてみれば彼らにより困難でより不確実な選択をさせてしまったのかもしれない。そういう時は甘い話など一切せず、ただ「がんばれ」というだけだった。

ある生徒に「最初はなぜ、センセイがわざわざ中国でも僻地のオルドスに来て、日本語を教えるのかわからなかった。砂漠での交流のとき、なぜわざわざ日本から高いお金を出して、砂漠に来てひたすら木を植えるのか、わからなかった。でも今は理解できます。センセイの将来が楽しみですね。」そう言われてはっとした。

生徒の将来も大事だが、ボクの将来はどうなるんだろう。漠然とは考えていた。日本に帰国しても、できれば中国関係の仕事に就きたいと思っていた。できれば内モンゴル、そしてできればオルドスと関係のある仕事に就きたい。でも、どうすればそれができるのか、見当もつかなかった。

こうして時は流れ、生徒たちともお別れの時が近づいてきた。日本語の授業は5月中旬に終了し、生徒たちは受験に向けてラストスパート。ボクも連日連夜の送別会などで、ずっと二日酔い気味。生徒たちと会う時間も少なくなってしまった。

1か月以上、毎日昼夜問わず白酒の宴会。この時期僕の精神状態はとても不安定だった。ある夜、僕は学校以外の友人の家で遅くまで飲んで、フラフラになりながら部屋にたどり着いた。なぜか部屋の屋根の上に登ってオオカミのように吠え続けていた。その後大きな声で日本の歌を歌っていたという。翌日隣のくまさんに聞いた話。まさか僕がそんなことするはずない。最初は冗談だと思っていたが、複数の目撃証言があり、顔から火が出るほど恥ずかしかった。

またある夜、同学年の先生方と宴会。教員の飲み会は学校の娯楽室で行われる。飲まされすぎて、フラフラになりながら外へ出る。トイレを済ませて娯楽室に戻ろうとする。ふと石炭置き場の黒光りする大きな石炭に目が止まる。きれいだなあ。石炭を両手でなでまくる。両手が真っ黒になる。そのまま娯楽室へ。同僚の先生はみんなびっくり。「まあまあ、石炭まみれになっちゃって。」女性の先生がぬれタオルを持って僕の手を拭こうとする。僕はその手を振り払って、彼女の顔に石炭を塗り付けた。みんな唖然。「何をしてるんだ!」お腹の大きな学年主任の先生に怒られる。僕はまるで幼児のように「ワ~ン」と泣き出し、主任のお腹に顔をこすりつけて泣き続けた。

翌日起きたとき、最初は何事もなかったようにコーヒーを飲んでいたが、なぜか手が黒ずんでいる。だんだん思い出してくる。あの修羅場を・・・。女性の先生は僕の日本語の授業を受けていた。ひどいことをしてしまった。反省。そして意を決してその先生の家に謝りに行った。「先生、私は大丈夫ですよ。先生こそ大丈夫?飲みすぎてホームシックになったんじゃないですか。」他の同僚の先生方も「飲んであれだけ暴れて泣けるのは素晴らしい。またひとつオルドス人に近づいたな。」と冗談を言いながら許してくれた。オルドス人のおおらかさを感じた。だから日本ではいつも無表情の僕がオルドスでは自分をさらけ出せたのかもしれない。

日本語の授業が終わってからは、たまに部屋を訪れてくれる生徒たちのおかげで辛うじて僕はこの学校の先生なんだと実感できた。それがないとただの飲んだくれ外国人だ。

ふと気がついてみると、初めて会ったときには幼い顔立ちだった生徒が、今は髭を蓄えていたり、同じ視線で話していたのに、今では見上げなくてはならなくなったり、女子生徒もずいぶん女性らしくなっていた。いつの間にか立派なモンゴル族の男、女になっていた。改めて彼らの心・技・体の成長の過程の中に自分の3年間の活動があったと思い知らされた。

自分がもっと心が広くて行動力があって冗談が言えたらもっと生徒たちや先生方と深い関係が築けた。もっといろいろできたはず。いろいろやりたいことも中途半端だった。いろいろ思い出はできたが、自分は相変わらず心が狭く、気が弱いとても成長したとは言えない。自分を置き去りにして成長していく生徒たちの姿にただただ驚くばかりである。

オルドス最後の夜。アルコール付けになった体を懸命に動かし、部屋を片付けていた。最後の数日は輪をかけて飲んだので、ほどんど思考能力を失っていた。さびしいとか悲しいとかいう感情もない。ただ「もうすぐ終わるんだなあ」という思いしかなかった。

突然生徒たちが部屋の中になだれ込んできた。最後の夜。自習を終えた生徒たちだ。「センセイ・・・。」といった後、生徒の一人がボクにプレゼントをくれた。A3大の手作りのプレート。青地に白くモンゴル語と日本語で文字が書かれていた。日本語のほうは「お互いに思い会うように。51、53班」と書いてあった。「思い会う」の部分を見て思わず苦笑してしまった。

いろいろ話したかったが、何を言っていいのかわからなかった。「センセイ、また遊びに来てください。」「センセイ、受験が終わったら、手紙を書きます。」「センセイ、早くきれいな奥さんを見つけてください」・・・。生徒のほうはいろいろ話してくれたが、こちらがうまく返すことができない。「受験、がんばれよ。」というのが精一杯だった。別れのシーンはどうも苦手だ。「さあ、そろそろ寝ないと、先生に怒られるよ」なんだか、照れくさくなり追い払うように生徒たちを帰してしまった。もっとなにか言ってあげたかったのに。

次の日の朝、ぎりぎりまで片付けに追われた。校庭を前で先生方と記念撮影。記念にもらったモンゴル衣装。オルドスの空のように真っ青でとてもきれいだが、サイズが大きすぎた。生徒は授業中だったが、みんな降りてきてくれた。最後にもう一度記念撮影。何人かの生徒と握手をして、「さようなら」と別れを告げた。学校が用意してくれたジープに乗り込むとものすごい勢いで走り出した。あっという間にモンゴル族中学が見えなくなった。

帰国後、多くの生徒から手紙が来た。ほとんどの場合、「センセイ、こんにちは」と日本語で始まる。しかしその後はひたすら中国語、中にはモンゴル文字で書き綴る生徒もいた。当然こちらはチンプンカンプン。そして最後は日本語で「センセイ、さようなら」。それでも、とてもうれしかった。すぐに返事を書いた。

しかし、時が過ぎていく中で、元生徒との文通は徐々に途絶えていった。ただでさえボクは根っからの筆不精。その上中国語を交えて返事を書くのは大変な労力だ。就職してからはオルドスのことを思い出すことさえなくなっていた。

このままいい思い出としてこの物語は終わってしまうのだろうか・・・。

*まだまだクラウドファンディング継続中。ぜひこちらもご覧ください!
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2019,06,26, Wednesday 05:36 PM


ボクの部屋には訪問者が多かった。知り合いはもちろんのこと、まったく面識もない人がよく部屋を訪れた。

いきなり部屋に入ってきて、「日本語を教えてほしい」と言ってくる若い女性。「俺は何でもやる。苦労を厭わないから是非日本へ連れて行ってくれ」と言ってくるむさ苦しい男性。「日本のカメラを買ったんだが説明書を中国語に訳してほしい」と言ってくる厚かましいおばさん。断ったり、少し相手をしてみたり、まったく知らない人でも適当に付き合っていた。うっとうしく思うこともたびたびあったが、そういった人たちは自分の希望を素直に伝えに来るだけで、断ってからといって怒ったりしないし、少なくとも悪い人たちではなかった。しかし、当たり前のことだがなかには悪者もいるようで、94年新年早々、こんでもない事件に巻き込まれた。

昼の2時半ごろ、その日の午後は授業がない。ボクは部屋でゆっくりと昼寝をしていた。そこへノックの音。寝ぼけ眼でドアを開けると、若い男が2人立っていた。「ウユン先生はいますか。」と丁寧に聞いてくる。「いや、ここにはいないけど・・・。」話が終わらないうちに、2人組はドッとボクの部屋になだれ込んだ。

「お前が日本人だということは知っているぞ。金を持っているだろう。早く出せ。」ボクは自分でも驚くほど冷静に「お前らこんなことして警察にばれたらどうなるか、知っているんだろうな。今、おとなしく帰ったら警察には言わないからさっさとうせろ。」と諭していた。最初はただ金を出せという程度だったが、ボクがいつまで経っても金を出す素振りを示さないので、2人組は徐々にイラついてきて、凶暴になっていった。

まずタバコの火をボクの顔の近くまで持ってきて、「これでもか」と脅してみせる。なんとしても金は渡したくなかったのでそれでも毅然と断っていたら、最後は一人に羽交い絞めにされ、もう一人に喉元にナイフを突きつけられた。もう抵抗の余地はない。「机の一番目の引き出しに入っているから。」と言うと男たちは急いで、引き出しを開けた。そこには確かに金が入っていたのだが、中身は1元や5角や1角など、クシャクシャになった汚い札の束が無造作に置かれているのみだった。

ここオルドスで生活するうえで、大金は要らない。合計しても日本円で3000円ぐらいだったと思うが、ボリュームがあったのでそれでもうれしそうにポケットに入れていた。同じ引き出しにコンパクトカメラもあったのでそれも盗られた。机の上においてあった8ミリビデオカメラも持っていこうとしていたが、それは日本でしか使えないものだから置いていけ、と言ったら「あ、そうか」と素直においていった。

強盗たちはそそくさとボクの部屋を出て行った。怪我はなかった。しかし、帰り際男の一人が「俺たちはここの組織のものだ。警察にも通じている。もし警察に知らせたら、また来るからな。その時は命がないと思え。」と、捨て台詞を吐いた。襲われている時は割りと冷静だったが、犯人が去った後、急に怖くなって、腰が抜けて地べたに座り込んでしまった。

どれくらい時間がたったのか。ふと我に返って、どうすべきかいろいろ考えた。「とにかく、誰かに知らせなきゃ。」学校の事務所に行くと、こちらが何も言わないのに事務員が「どうしたんだ。」と聞いてくる。それくらいボクの顔は真っ青になっていたそうだ。「実は、さっき強盗に襲われて・・・。」冷静に話そうとすればするほど、声が震えてくる。学校から警察に連絡を入れてもらい、すぐに刑事たちが駆けつけた。

ボクの部屋で指紋を取ったり、ボクに当時の状況を詳しく聞いたりした。最後は似顔絵師がやってきて、これも詳しく顔の特徴を聞いてくる。「目は一重か?髪型は?髭は?歯並びは?・・・。」辞書を片手に時間を掛けて説明した。

その晩、12時ごろ床に着いた。しかし、喉元に突きつけられた刃物の感触が消えない。白昼強盗という大胆不敵さ。「警察に言ったら殺す」と言った犯人の捨て台詞。いつまた襲ってくるかという恐怖心から、なかなか寝付けない。隣では鼾が聞こえる。少し安心する。すると外でカサカサと音がする。「ん、犯人の足音か?」全神経を集中して、外の音を確かめる。どうやら枯葉が舞う音らしい。その夜は一睡もできなかった。ハンマーを握り締めて、夜を明かしていた。

翌朝、また、ドアをノックする音。「俺だよ。」クマさんの声だ。クマさんの部屋で朝食を食べた。「しばらくは怖いだろうが大丈夫。もし犯人が来たら、これでやっつけてやる。」どこで拾ってきたのか鉄パイプを振りかざす。これほど隣人を頼もしく思ったことはない。クマさんは当分、どこにも出かけないで、隣にいると約束してくれた。

日中は刑事たちがひっきりなしに訪れ、犯人の特徴、事件の経緯など聞かれた。夜は東勝の20~30歳の男千人以上の顔写真を見て過ごした。犯人に似た人はいないか。しかし、人の記憶とはあやふやなもので、千人もの人の写真を見せられると、単に人相が悪い人が犯人に思えてくる。

結局、その写真ファイルでは誰が犯人か確証を持って言うことはできなかった。しばらく眠れない夜を過ごし、日中は取調べを受け、ボクはすっかり衰弱してしまった。

しかし捜査は着実に進んでいた。、事件発生後、ちょうど1週間目に犯人は逮捕された。

刑事が犯人逮捕の伝えに来て、そのまま僕をパトカーに乗せて警察署まで。署長室に通されると警察のお偉方がズラッと並んでいる。一人ずつと握手をして最後にテレビカメラの前でインタビューを受けた。その日、オルドステレビのニュースでトップ項目として伝えられた。

金は申告通り200元がピン札で戻ってきた。小型カメラも無事だった。大胆不敵だと思っていた犯人は実はたいした考えもなく犯行に及んでしまったようだ。ボクの記憶はあやふやで捜査にあまり協力できなかったが、校内での目撃者も結構いて犯人の身元はすぐ割れたとのこと。

この事件で、その学期最後の授業が延び延びになって1週間後にやっと行うことができた。生徒たちも心配だったらしく、ボクが教室に入った途端、涙ぐむ女子生徒もいた。男子生徒も何人かはずっと下を向いたまま声だけ出しているという状態。ボクも一時自分でやっていることがわからなくなるほど、たどたどしい授業になってしまった。

最後に今学期のまとめ、来学期のことそれから事件のことにも少し触れ、もう心配要らないから、といって授業を閉めた。終わりの挨拶のときは、今までで一番力強い「センセイさようなら」という声が返ってきた。

この事件でこれまでに経験したことのない恐怖を味わったが、反面先生や生徒たちそして刑事など周りの人たちの暖かさを改めて感じることができた。

*まだまだクラウドファンディング継続中。ぜひこちらもご覧ください!
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2019,06,25, Tuesday 04:54 PM


93年10月、東勝から150キロほど離れたクブチ砂漠のオンカクバイというところで日本の植林ボランティアの人々と共同で木を植えるという活動を行った。

これは前から是非やりたかったイベントだった。ボランティアの方々に費用を負担していただき、学校側に何度も働きかけた結果、季節的にも、受験を控えている生徒たちにとってもタイムリミットであるこの時期にやっと実現した。ただ物理的な理由から、先生10名、生徒10名しか行けなかったのは残念だった。このボクの活動史上最大のイベントに校長は全面的に協力してくれて、教育局や公安への許認可関係などを一手に引き受けてくれた。

10月12日午前10時、校長を団長とした「オルドスモンゴル族中学植林隊」の一行20名はマイクロバスに乗り込み、一路、クブチ砂漠のど真ん中にあるオンカクバイを目指した。バスは北へ向けて所々アスファルトが剥げている国道を快調に走った。いくつもの丘陵を越えた。左手に巨大な建物が姿を現した。建設中だができたらアジア最大の火力発電所になるらしい。ここオルドスは地下に良質な石炭が無尽蔵に眠っている。その石炭を使って電気を作り、それを電力不足の北京に送るのだという。地元ではしょっちゅう停電する。しかし自分の所の電力事情も省みず、ひたすら首都北京へ電力を送らなければならないとは。悲しいサガである。

途中の食堂で昼食をとった。校長以外は先生も生徒もみんな日本語を学んでいる。校長一人を置き去りにして、日本の話に花が咲く。

再び、バスに乗る。今度は西に進路を変える。アスファルトの道はそこまで。いきなりデコボコの土の道に変わった。土ぼこりで窓も開けられない。お尻が持ち上がるほどの悪路の中、車酔いしそうだが、みんなでオルドス民謡を歌いながら乗り切った。時々羊の群れに行く手を遮られながら、ひたすら西へ西へと進む。約10キロごとに集落がある。最初はレンガ造りの家が多かったが、西に行くにつれて土作りの家が多くなっていく。風景も野菜畑からとうもろこしや高粱畑へそして、いつしか不毛の地に姿を変えた。ある丘を越えたところから、辺りは一面の砂漠になった。いよいよクブチ砂漠。砂が迫って車1台がやっと通れる幅の土道。歌い疲れた先生や生徒たちはぼんやり砂漠の風景を見つめていた。

砂漠の広がる中、何時間走っただろうか。夕日が西に沈む頃、ようやくオンカクバイの植林基地に着いた。そこで日本から来ていた植林隊約20名と合流した。植林隊の皆さんは大学生か定年を過ぎた壮年の方が大部分を占めていた。働き盛りの人は、問題意識がないのか、或いは10日間のツアーにも参加できないほど忙しいのか、日本社会の窮屈さを感じた。

自己紹介の後、NGOの役員の方からの簡単なブリーフィングを受けた。「『サバク』とは乾燥のため植物が生えても、それが増殖しない地域のことを指します。つまり雨が降れば一時的に草などが生えてきますが、日照りが続けばそれらは枯れてしまいます。何年間も生き続ける植物が極めて少ない地域、それが『サバク』です。日本語では『砂漠』と書きますが、『サバク』は砂ばかりでなく、土であったり、礫であったり、岩や塩でできたものもあります。中国では水が少ないという意味の『沙』という文字を使い『沙漠』と表します。」熱心な話が続く。オルドスで砂漠化がどれだけ進んでいるのか、どうすれば草原を取り戻すことができるのか、みんな真剣に聞いていた。

その後、お待ちかねの親睦会を兼ねた夕食。食堂には4つの丸テーブルがあった。1つのテーブルに日中のメンバーがそれぞれ5人ずつ加わった。当初、ボクは校長と同じテーブルに座っていた。校長を除いては日本人と日本語学習者。どうしても日本語中心になってしまう。昼もそうだったので少々気の毒になって、校長に振ると、校長曰く「私は初めて言葉の全くわからない世界を経験した。まるで外国にいるみたいだ。でも、おかげで君がどんなにさびしい思いをしながら、生活しているか、身をもってわかったよ」と言った。しみじみとした、その言葉にはずっしりとした重みがあった。

やがて、ボクは若手の先生や生徒、日本の大学生がいるテーブルに呼ばれて、場所を移動した。話題もこっちのほうが合う。日本の歌を一緒に歌う。「坂本さん、モンゴルの生徒さんたちは、シブイ歌を知ってますね。『北国の春』に『星影のウルツ』に『与作』・・・。これは先生の趣味ですか?」日本の大学生に突っ込まれて、言葉を失ってしまった。「最近は若者の歌も教えてるんだけどなあ・・・。」話題を無理やり「あっち向いてホイ」にもって行った。これが大いに受けた。

こちらがゲームなどで盛り上がっている間、校長の座っていた「年配者のテーブル」のほうは険悪なムードになっていた。後から聞いた話だが、校長は言葉が通じない中、校長なりの流儀で友情を示そうした。銀碗にオルドスバイチュウを注いで、日本の年配の方々に飲ませ始めたのだ。だいたいは苦しみながらも、何とか飲み干したようだが、一人、どうしても飲めない人がいたらしく、執拗に飲ませようとする作法に堪らず、銀碗に入ったバイチュウを床に捨ててしまった。これはモンゴル族の作法に反する行為。しかしその人は酒が飲めない人に無理やり飲ませるやり方のどこが礼節だ、と主張。険悪なムードのまま、そのテーブルの人たちは各自の部屋に戻ったそうだ。ボクたちはそんなことが起こったとは露とも知らず、12時過ぎまで、歌い騒いでいた。

次の日、6時に起床。やや二日酔い気味だが、そんなことは言ってられない。7時にまたバスに乗り、5キロほど離れた所にある植林サイトに向かった。砂漠のど真ん中に確かに森ができている。これには感動した。そこを通り過ぎて、その日ボクらが木を植えるのはやはり砂漠。午前中のノルマは1000本。40人で植えるのは大変だが、ここをさっきのような森にしようという強烈な動機付けもあって、みんな素早く作業に取り掛かった。

まず穴を掘る。深さ80センチほどの穴を掘らなければならない。砂なのでスコップがザクッと深くまで刺さる。掘りやすいといえば掘りやすいが、掘った後からどんどん砂が穴に入り込んでしまう。そこでモンゴル族の生徒が手本を示す。スコップを垂直に下ろし四角い穴をいとも簡単に掘ってみせた。オルドスの人たちは小学校の時から年に何回か「義務労働」に駆り出されて砂漠で植林作業を行う。砂漠に穴を掘るのは朝飯前だ。

穴にはポプラの苗木を挿して、素早く砂を戻す。苗木が垂直になるのがポイントだが、なかなか難しい。うまくいったら足で周りを踏み固めて、仕上げにバケツ1杯の水をかける。水は100mほど離れた所にある井戸から汲んで運んで来なければならない。穴掘り・苗木挿し・水かけ、3人1組になって、2mほどの間隔をあけながら、木を植えていく。体力のある人ない人、それぞれ助け合いながら自分のできることをやっていく。見事なチームワークで作業が進み、午前中に予定を上回る1500本の苗木を植えることができた。

3時間ぶっ通しの肉体労働に、ヘトヘトでペコペコ。昼食はご飯に野菜炒めをかけただけの質素なもの。みんな貪るように食べた。10月とはいえ、真昼の砂漠、日差しはきつい。それぞれ、木陰を探して一休み。昼寝をする人、トランプに興じる人、砂に文字を書きながら、筆談をする人、そんな交流の姿をボクはしっかりカメラに収めていった。

2時間ほど休んで午後の作業。少々風が強くなって砂が舞う中、少しも怯むことなく作業を続けた。3時にはその日予定されていた2000本の木を植え終わった。みんな砂漠に刺さった細々としたポプラの苗木を見つめていた。風と闘い、砂と闘い、乾燥と闘い、寒さと闘わなければならない。この2000本の苗木のうち、何本が来年の春を迎えることができるだろうか。10年後に是非この地に立っていたい。そう強く思った。

時間があったので帰りは「沙漠ウォッチング」ということで5キロの道のりを歩いて帰ることになった。みんな思い思いグループを作って、ゆっくり寄り道をしながら基地に戻った。砂漠の砂紋をじっと見ているグループ、糞ころがしが野鼠の落とした糞を丸めているところを写真に収めているグループ、砂漠に生えている薬草の採取をするグループ。

この日、ボクの出番はほとんどなかった。交流のためのゲームなども考えてはいたが、一つの目標に向かって、作業をともにした仲間たちには何も必要なかった。少しだけ寂しさを感じたが、裸足になって砂をザクザクと踏みしめる感覚を楽しみながら、それぞれの交流の姿を見つめていた。

砂漠の砂を持って帰ろうと、空になったペットボトルに砂を詰める。手で砂を掬ってみると、下のほうはかすかに湿っている。そして砂漠のど真ん中にも所々、水溜りがある。そこが決して不毛の地でないことを物語っている。きっと再生できる。かのジンギスカンが惚れ込んだという、素晴らしい景色を想像しながら基地に戻った。

夜は食堂で夕食をとった後、巨大なモンゴルゲルで打ち上げ。まず、蒙古族中学側から感謝の意味を込めて、オルドス民謡を歌いながら、銀碗でバイチュウを勧めていく。決して無理強いはしない。それを受けた日本人もモンゴルの礼節に則って、右の薬指でお酒を弾きながら、天と地と人に感謝して飲めるだけ飲む。日本側からも答礼の意味を込めて、同じように酒を勧める。歌はもちろん日本の歌。幅広い世代の中、みんなで歌えるのはやはり童謡が多かった。先生たちが終わると生徒にも酒が振舞われる。一気に飲み干す生徒に歓声が上がる。酒に関する文化の違いを乗り越えたひと時だった。

それから、ボクの部屋に男子生徒と何人かの日本のボランティアが集まって遅くまで、語り合った。それぞれの砂漠に対する思いをぶつけ合う。日本人にとっては憧れを持つ砂漠。しかし生徒たちにとっては現実。生徒の一人が少しずつ移動する巨大な砂丘に家が飲み込まれた話をする。もう一人が何百頭もの家畜が餓死した話をする。「砂漠のど真ん中での植林もいいけど、今度、機会があったら是非ボクの故郷に来てください。砂漠のすぐそばで生活をしている人々の姿を見に来てください。」あるおとなしい生徒がそう訴えていた。

次の朝、基地のすぐそばで記念植樹を行った。プラスチックのプレートに名前と感想を書いて、それぞれが植えた木に掛ける。何を書いていいか考えがまとまらず結局「砂と水と木と草と動物と人」とだけ書いた。ボクたちはもう基地を離れる時間。日本のボランティアの方々は引き続き植林を続ける。お互いの住所を書き合ったり、写真を取り合ったり、抱き合ったり、泣きあったり、それぞれの別れを惜しんだ。ボクの史上最大のイベントが終わった。

帰りのバスの中、やり遂げたという達成感はなかった。ボクの心は別のところにあった。「第二の故郷、オルドスで自分は何ができるのだろうか。これから何をしなければならないのだろうか。」荒涼とした風景を見ながら、ずっと考え続けた。

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